変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

「監視資本主義」時代にどのように生きていくか:働き方編

色々なところで絶賛されているように見えた「監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い」が邦訳されたので読んでみた。
単著であることと、”監視”資本主義というタイトルから面白そうな内容が想像できなかったので、読み始めのモチベーションは若干低かったのだが、読んでみたら想像以上に色々な刺激を受けた。

今回はその中でも特に、筆者の警告とは関係がない話だが、もしかすると未来ではこういうこともありえるのかな、と思った内容をまとめる。

この記事についてざっくり

  • 本書で述べられる「監視資本主義」とはどういうものか
  • 社会に起きている変化が、産業資本主義の誕生と同じくらい「今までなかった新しいもの」であるのならば、それに適合したビジネスやスキルがあるのではないか
  • そのような新しい価値の創造の仕方を想像してみるのは楽しいし、個人としてその働き方を選択するかは別として、変化せずにいることのリスクを意識するのは損ではない
  • テック企業がやっていることはもちろん、彼らの生み出す価値の「入」と「出」で必要とされるスキルについて
  • さらに「価値の創造」の仕方自体に注目したらありえるかもしれない変化について

「監視資本主義」とは(を簡単に説明したかったがだいぶ長くなった)

人々の経験を行動データへ変換する原材料とし、自社の利益のためにそれを利用する。
作られる製品(=広告アルゴリズム)は消費者であるユーザーに売られるわけではないため、ユーザーは決して「顧客」にはなりえず、情報を抽出されるだけの対象として処理される。
さらに市場からの要請により、ユーザーたる人々は、監視資本主義において単に資源を生み出すものとして扱われるだけでなく、企業にとってより多くの利益を生み出すよう、人々の行動の自動化までもが求められるようになる。

一番わかりやすい例として、インターネット上の我々の行動を全て捉え、効果的な広告を出してくる GoogleFacebook がその代表として挙げられているが、Google はあくまでこの仕組みを発明した企業であるだけで、すでに多くの企業にこの流れは取り入れられており、巨大インターネット企業がいなくなったとしても、指を咥えて見ているだけではこの流れが変わることはないという。

かなりディストピアな物言いだが、類似した事象を我々は前世紀に一度経験している。それは規制のない「生(ナマ)」の資本主義において、多くの企業の手で引き起こされた自然環境の破壊や労働者からの搾取だ。短期的な狭い視野の中での利益の追求によって、そうした大きな損害が社会にもたらされたのと同様、この監視資本主義の流れにおいて、新しいテクノロジーを手にした者達に全権を委ねてしまえば、これまで人類が築き上げてきた貴重な人間社会の破壊が起こりうるのだ、と筆者ズボフは言う。

「監視」という日本語の響きに囚われていると話の理解が難しいのだが、ズボフの考えでは、これは産業革命が起こった時のように「前例のない」変化であり、既存の言葉や概念では説明することができないものである。そのため、改めて定義し名付ける必要がある。
「自動車」を「馬のない馬車」と理解していたのでは、その本質を理解していないことになる、とはズボフの言葉だが、この監視資本主義がまさにその「馬のない馬車」なのである。

前例がないためにうまくコントロールできていないことの一つの例として、既存の市場規制ルールである「独占」や、古くから議題に上がってきた「プライバシー」の問題としては対処できない、という指摘がされている。

独占の問題ではない

もちろん巨大インターネット企業の独占によって、人々がより大きな不利益を被ることはあるのだが、仮にそうした企業が分割されたとしても、それら分割後の企業達で同じことが行われるため、ズボフが言うところの人々からの経験の簒奪がなくなることはない。
それは例えば、巨大独占企業が存在せずとも、環境破壊や労働問題が悪化したことと同一だ。
環境や労働者にフリーライドする方が、短期的に見ればその個別企業の利得は大きく、一社でも抜け駆けするところがあれば、それと同じことをしない限り、ビジネス面で他社は大きなハンデを負う。
国による法の規制のような公的な力があってはじめて、より長期的に人々が幸せになれる方向へと進んでいく。

プライバシーの問題でもない

「プライバシー」の概念はかなり複雑で、人によってはこれはプライバシーの問題として対応ができる、という人もいるかもしれない。
しかし、監視資本主義が望んでいることは、個々の人間のプライベートな情報を事細かに知りたい、ということではない。実現したいことは効果的な広告を出したいのであり、単にこれまでは個人が識別可能なデータをベースにして広告モデルを作っていただけで、それ以外の方法でやりたいことが実現できるならそれに拘ることはない。
実際、Google が新しく始めている広告のターゲティング手法は、既存の Cookie を利用した個別識別可能なユーザーデータは利用せず、「似通ったユーザー群」のようなものを使うことで意味のある広告を出そうとしている。少なくともここでは「個別のAさんは、いつどこで何をしていた」というデータはどこにも記録されず、プライバシーが保たれているように見える。
しかし高木浩光が言うように、Google のこの新しい仕組みでも「社会的合意のないデータによる人々の選別」が行われていることは間違いない。
そしてそうしたデータによる選別は、多くの国の憲法で謳われている自由と平等の権利(ここで重要なのは「平等」だけではなく「自由」も破壊の対象に含まれている)を侵害するため、避けねばならない、とされている。

乳牛に例えて

混乱を生むかもしれないが、あえてより卑近な例を使った比喩をしてみよう。

例えば僕の実家は、大元を辿ると牛乳屋をやっていたらしい。
牛を、生乳という原材料を生み出す資源として利用して商売していたことになるが、これを産業資本主義と比較すると、

  • 牛=ユーザー
  • 生乳=ユーザーの行動データ
  • 生乳を加工して作られる乳製品=ユーザーの行動予測を可能にするアルゴリズム

になる。
生乳を効率よくお金に換えるためには、牛には健康でいてもらい、気持ちよく乳を出し続けてもらう必要がある。
そのためには牛を手厚く扱うだろう。牛としても、自然界の様々な危険から守られた快適な環境で健やかに過ごせるかもしれない。

しかし、企業の第一目標は決して牛を幸せにすることではない。利益を出すことだ。
まず牛からは乳が出れば出るだけ絞るし、乳が増える薬物があるなら牛に許可を取らず投与するだろうし、排出される乳を最大化する睡眠・運動時間等があるならば毎日それを牛に課すだろう。
こうした牛への押し付けは、国による動物愛護等の法規制がない限り、市場の圧力によって際限なく強化されていく。ある牧場が良心的で、牛の幸せを考えるところであったとしても、その牧場は他の牧場との競争に負けて消え去ってしまうため、結局はほとんどの牛が最も利益を生むことに最適化された環境へと追いやられる。

「実際に資源として扱われるのは牛ではなく人間だから、現実はそんなに酷いことにはならない」という反論があるかもしれないが、ビジネスの世界で競合が存在し、世界的に成長が求められ続ける株式公開企業であれば、意思決定者にかかる圧力は我々には想像できないほどのものだろう。
その圧倒的な市場圧力がある中、それを押し留める力となるような規制がない状況では、単なる資源に過ぎない「ユーザー」の自由意思を尊重し続けることはひどく難しいはずだ。
牛が美味しい乳をもっと多く出すようにとコントロールされるように、我々ユーザー自身も、監視資本主義にとって最も都合の良い行動をとるように、観測され、導かれる、ということがあり得る。

そこには確かに、自然の過酷な環境から逃れられた牛のような、ある一定の快適さは存在するし、一見、自らの意思で生きているように錯覚するかもしれないが、明らかにその自由はコントロールされたものだ。

このように、過去に規制のない生の産業資本主義によって自然環境(=nature)が破壊されたように、誰からもコントロールされない監視資本主義では、自由意思という人間の本質(=nature)が破壊されてしまう、というのがズボフの警告だ。

この生の監視資本主義に立ち向かうための処方箋についてもズボフは議論しているが、それについては深く立ち入らない。
本書は色々な気づきを与えてくれるのだが、今回はその中でもこのまま物事が進んだ未来の視点で考えたことをまとめたいためだ。

というのも、20世紀におきた「生の資本主義」による問題に対応するために取られた選択を見れば分かることがある。今世紀になっても資本主義自体の却下が選択されなかったように、「生の監視資本主義」がまずいといっても、コントロールされた形で監視資本主義の流れは進むのではないか、と考えられるからだ。過去の環境破壊に対する対策では、環境を破壊する形での生産方法が規制されたが、発明された工業化や大量生産のシステムは消え去ったりしなかったのと同様、監視資本主義の大きな発明自体は消えないだろうと僕は考えている。

すなわち、仮に本書の警告が正しいとしても、それに対する対策とは、ユーザーデータの収集を禁止したり「ナッジ」することを規制したりすることではないと思っている。人間は得られた果実をそう簡単に手放すことができないからだ。

その代わりに考えられる対策は、例えば企業がやろうとしていること・考えていることをオープンにするよう要請することであったり、その企業ポリシーの指針となるような、社会で共通する「これだけはまずいよね」という原理原則を決める場に、人々が参加できる仕組みを作ることなのではないだろうかと思っている。

人々の働き方も変わるのではないか、という視点で見たアナロジー

前置きがものすごく長くなってしまったのだが、それくらい本書は興味深い。
ただこの記事で考えようと思ったことは、その警告そのものではなく、前節の最後に書いたように、仮にこうした「ユーザーそれ自体を価値創造のための原材料排出資源とする」ような変化がさらに進んだ場合、過去に起きた産業構造の転換時のような、人々の価値創造への携わり方、すなわち働き方にも大きな変化があってもいいのでは、ということだ。

自動車は、それがこの世に単体で生まれたばかりの時点では、馬車を駆逐するようなものではなく、単なる「馬のない馬車」と扱ってもよかったかもしれない。
しかし、フォードが大量生産を実現し、道路が張り巡らされ、多くの人々の元に自動車が届くようになった時、明らかにそれまでとは価値の創造の仕方が変わった。
馬車を作る職人の多くは食いっぱぐれて転換を余儀なくされただろう。そして、その転換の重要なポイントは、馬車職人は「車職人になったわけではない」ということだ。
馬車時代は、一人の職人の手によって馬車という一個の完成された製品を作っていたかもしれない。しかし、自動車の大量生産の時代において、自動車工場で働く労働者は、一人で一つの車を作ったりはしない。その代わり、工場内の与えられたポジションで与えられたパーツのみを組み立てることになる。
そこで変わったのは個人の単なるスキルだけではなく、働き方それ自体が完全に別物となっている。エンジニアが営業になりました、というだけでなく、個人事業主が企業の正社員になりました、というような変化も含まれているのだ。そして忘れずにいたいのは「正社員」という概念も昔はなかったということだ。

ズボフが論じているような、既存のシステムを決定的に破壊するような変化が起きているとするのであれば、今まで我々が自明だと考えていた働き方にも類似した変化が起きる可能性はある。そうであるならば、その形についてよく考え、備えられるものには備えておかないと、食いっぱぐれた馬車職人や御者と同じ運命を辿ることになる。
もちろん、周りが変化するから、全ての人間が変わるべきである、という主張をするつもりはない。
そもそも、時代の変化の中においても、単に生き残るだけでなくさらに成功した馬車職人もいただろうし、ビジネス的な成功が幸せの最優先事項ではない多くの人間にとっては、自分のやりたいことをやることが大事なのだから、個々人の選択においては何を選ぼうと自由だ。
ただとはいえ、これから真冬のNYに向かうけどトランクに入っている着替えは全部Tシャツです、というのはだいぶチャレンジングだし、ダウンジャケットを実際に買うかどうかは別にしても、ニューヨーカーがどういうスタイルをしているか調べるくらいはやってもいいだろう。

監視資本主義の担い手

一番最初に簡単に思いつく新しい仕事は、自動車が広まっていった時の自動車工場そのものにあたる、 Google を始めとした現在の巨大インターネット企業がやっている仕事だろう。
ただ、過去のフォードでは大量の工員が雇われたかもしれないが、この仕事には高度な情報技術に関する知識やスキルが求められ、人海戦術ではなく少数精鋭でサービスを生み出す分野なので、僕個人がアルファベット(Google)やメタ(Facebook)に雇用されるかも、と考えるのは、ウォール街のエリート達のスタイルを真似ようとするのと同様、あまり有意義ではなさそうだ。

しかし、自動車社会の発展において、多くの道路が作られたり、それを使って物が届けられるようになったり、個人が旅行に出かけるようになったりと、様々なビジネスが生まれているのと同様、巨大なテック企業に所属せずとも、変化の影響を受けることは間違いがないはずだ。
単純にすでに始まっているものだけを考えても、原材料(=行動データ)の収集のための仕組みと、加工された製品(=広告)を購入する側の変化がある。

原材料の収集を手伝う

インターネット上で行われているユーザーデータの収集は、Google ら巨大テック企業によって独占されており、そこは前述の通り、あまり僕が入る余地はなさそうだ。しかし、データ収集はインターネットで始まったが、本書でも記載されている通り、その活動は当然の如くネットの外にも広がっていき、今ではリアルの世界で、ネット端末以外での人々の行動を観測できるように、様々なセンサーがつけられていっている。
また、ソフトウェアにおいても、巨大テック企業に握られていない、ブラウザを介さずに利用されるスマホ端末内の各アプリでの行動等も重要な原材料となりうる。
もしも、このようなセンサーが付いていない製品の需要が減っていくのであれば、周りを検知することができる仕組みを、ソフトウェアであれハードウェアであれ、部品であれサービスであれ、その形に関わらず、自分達が作る製品に組み込めるスキルが必要となってくる。

ユーザーに届けるために広告を購入する

行動データという原材料を加工して作られる商品を購入する(=いわゆる広告を出す)側は、消費者に自社の商品を届ける方法が昔とは大きく変わるだろう。
信頼する親友からおすすめされるように、優秀な執事が必要なタイミングでそっと出すように、商品を売ることができるようになっている。
昔は消費者が、店先に並べた商品を選んで物を買っていっていた。あるいは営業が口説いて売っていた。
しかし、監視資本主義によって生み出される進化した広告アルゴリズムは、よりダイレクトにユーザーを商品に触れさせるようになっており、もはやそれは広告というよりも自動化された営業だ。もし昔のスタイルでの物の売り方が廃れて行くのであれば、この監視資本主義が生み出した新しい仕組みを使った商品の売り方を使いこなすスキルを身につけなければいけない。

一方、今見えている監視資本主義の発明と直接的な関係にあるもの以外には何があるだろうか。
一つ考えたものが「価値の作られ方」に関するものだ。

新しい価値の作られ方

現代では、消費者が利用する多くの商品は、その消費者とは無関係の場所で作られ、その後に消費者の元に届けられている。
今貴方の部屋にある物、あるいは最近受けたサービスを思い浮かべた時、それが「作られた場所」はどこだろう?きっとその場に貴方はいなかったはずだ。
かつては違っていた。馬車職人は顧客の話を聞き、その要望に沿ったものを作っていた。商品=価値は、ユーザーと同じ場所で、そのユーザーのためだけに作られて交換されていた。
もちろん、現代でもユーザーを満足させるため、様々な取り組みがされている。商品開発のためのユーザーへのヒアリングは当然だし、様々なオプションを用意することでユーザー自身による選択を可能にして好みに近づけられるようにしたり、ユーザーが考えもしなかった望みを叶える商品を作ることもその一つにあたるだろう。だがそれでもやはり、物が作られる場所はユーザーから離れた共通地だ。

念のために補足すると、現代においても、ごく一部の人間のもとでは直接的に価値が創造されている。
自分の型紙で作られた服を着て、自分用にデザインされた車に乗り、夕食にはその日の自分の体調に合った寿司が出てくるような。
当然、これには膨大なお金が必要になる。そのユーザーだけのための商品を作るには、最低でも一人以上の人間がそのユーザーにつきっきりにならなければいけないからだ。 ユーザーは、自分自身を養うお金だけでなく、自分の欲望を叶えてくれる複数の人間の生活を自分だけで賄う必要があり、それは富豪にしかできないことだ。

だが監視資本主義の進化によって、この「人間がそのユーザーにつきっきりになる必要がある」という点が置き替わるのでは、と思った。
なぜ人間が時間をかけて対応しないといけないかというと、まず第一に、そのユーザーのことを知る必要があるからだ。そしてその情報を元に、潜在的にであれ顕在的にであれ、そのユーザーが求めていること(=価値)を考える必要がある。それはかつては人間の頭脳でしかできなかった。

しかし、少なくとも、監視資本主義のもとでは「ユーザーのことを知る」は完了している。なぜならユーザーは行動データを生み出す資源であり、行動データはそのユーザーのことを何よりもつまびらかにしてくれるものであり、その収集が実現されているからだ。

もし商品を作る際、その商品の原材料に、この監視資本主義で発明された原材料たるユーザーの行動データを「混ぜる」ことができたらどうなるだろうか。これまでユーザーに売るための機能を作る原材料として使われていたデータが、ユーザのために使われるようになったとしたら。
もちろん、自分好みの見た目の車が欲しい、という欲望に応えるのは相変わらず難しいだろう。しかし、「ものからことへ」が謳われ始めて随分になるこの現代において、求められる満足の内どの程度がものに依存しているだろうか。

ユーザーと異なる場所で作られていた価値が、ユーザーと一緒になって作られる。ユーザー自身がその場で意見を出すわけではなく、何もせずに自動でそれを把握する。

例えば健康であれば、その人が理想とする身体と行動のバランスをサポートしてくれるアプリ
例えば保険であれば、その家族が必要とするリスクケアだけがあり不要なものはない商品
例えば教育であれば、ある小学校のある学年のあるクラスのためだけの授業

そういう社会になればいいな、という僕自身の願望も半分以上含まれているのだが、もしそのような価値の作られ方が当然の世界が来たとしたら、いったいそれはどのような働き方がされているだろうか。空想するとなんとなくワクワクする。

終わりに

昨年、会社で新卒ソフトウェアエンジニアに向けた研修をした際、
「前世紀までは『万人に共通する優れた製品をいかに安く大量に作るか』ということにテクノロジーが利用されてきたが、
 今世紀は『異なる嗜好を持った個々人に合わせて、いかにその人を満足させる体験を届けるか』ということにテクノロジーが利用される
 と僕は考えている
 皆さんのテクノロジーの力でそれを推し進めていって欲しい」
といったことを話したのだが、本書を読み、この記事の最後に書いたようなことに思いを馳せたことで、その考えがより深まった気がする。