変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

「形式」の力、それが生まれる瞬間:リアルとフィクションを繋げる ego:pression のイマーシブシアターの特別さ

このブログで何回か紹介している「イマーシブシアター」の公演を行なっている団体 ego:pression について、自分の中で一つの発見というか理解というか、なぜここまで何度も感動できる公演が続けられるのかの仮説ができたのでまとめてみる。

イマーシブシアターおさらい

「イマーシブシアターとは何か」の説明は難しい。
一応 Wikipedia に記事ページがあり、無理やり一言でまとめると「”舞台と客席”の関係をとっぱらい、観客が空間的に劇そのものの中で物語を体験するスタイルの観劇作品」となるが、
おそらく観たことのない人が読んで想像することは、実際に体験して理解することの1割にも満たないだろう。
ミュージカルを観たことがない人に「途中で歌が入る演劇」と説明してもたぶん正しい理解にならないのと似たようなものだ。

かく言う僕自身も、ニューヨークで公演されているイマーシブシアターの金字塔的作品を最近ようやく観ることが出来たものの、セリフのある演劇スタイルのものや、観客も完全に劇の一部として「参加する」ようなものは味わったことがなく、網羅的に語ることはとてもできない。

そのため今回は、Wikipedia 記事中で代表作として挙げられているある作品に似た形、
具体的には、劇自体はノンバーバル(セリフなし)で、ダンス等の身体表現を使って物語が紡がれる中、観客は空間を自由に回遊してそれを観るが、劇に影響を及ぼすことは基本的にない、というものを対象に語っている。

イマーシブシアターの代表作品とそれを観て気づいたこと

初演から10年以上の歴史を持ちながら、現在でもイマーシブシアターといえばこれ、と言われるような代表作が存在する。
ミュージカルで言うところの『オペラ座の怪人』や『キャッツ』のようなものだ。
ほぼ Wikipedia からの転載のような説明で恐縮だが、『Sleep No More』という名の作品がそれで、
2000年代にロンドンで公開された後、2011年からニューヨークのマンハッタンで公演されるようになり、多くの観客の称賛をあびて一躍有名となった。
おそらく現在日本にいるイマーシブシアターの愛好者や、特に製作者の多くは、この作品から影響を受けているだろうと思われる。

今回の記事で取り上げるパフォーマンス団体 ego:pression の代表も、この Sleep No More を観たことで影響を受け、自らイマーシブシアターを行うようになったそうだ。
Sleep No More が一般に知られるようになる前から「舞台と客席の消滅」を意識した多くの試みや作品があったことは間違いないだろうが、
直接的にせよ間接的にせよ、この作品が現在多くの人が想像する”イマーシブシアター”のイメージを作ったと言ってもいいだろう。

Sleep No More は2022年夏現在も毎日ニューヨークで上演されており、この前ようやく僕も体験することができた。
滞在期間に余裕があったこともあり、都合4回観に行ったのだが、それでも全てのシーンに遭遇できたわけではなく、熱心なファンが多くいることが納得できる深さと広がりを持っていた。

一方その納得と同時に、ego:pression の作品を体験して僕が知っていると思っていた”イマーシブシアター”というものとは何かが違うとも感じた。
ego:pression のイマーシブシアター作品によって揺り動かされたある感情には触れられなかったからだ。
もちろん、これは決して、どちらかの作品が良い/悪い、優れている/劣っている、という意味ではない。
そもそも、前述した通り4回も観に行っているくらいなので、Sleep No More が不満だとか詰まらなかった、などということも決してない。一緒に行った友人達も、全員が一人残らずとまでは言わないが、とても気に入っていた。
ただ、違うジャンルの作品を観劇した気がしたのだ。

僕は ego:pression のイマーシブシアター作品を3作全て見ているのだが、その3作全部に心から感動してきた。
前作の『リメンバー・ユー』には6回観に行ったくらいだが、その6回目の観劇でもそれまでにない感動を体験した。
1作だけであれば、たまたま何かの幸運に恵まれて傑作になりました、ということもあるだろう。
だがそれが3回も続くのは異常だ。
少し前までは、設計している演出家が飛び抜けて頭がいいのだろう、と思っていた。
ただそれにしても、黒澤明クラスまでいけば話は別かもしれないが、どれだけ優れた映画監督でも3作続けてここまで突き刺さる映画を撮れないだろうし、いくらなんでもやりすぎだろう!?という謎のツッコミが浮かんでもいた。

頭がいいことは間違いないが、何かそれ以外の理由もあるのではないか、と思っていた。
そんな中 Sleep No More を観て、自分が感じたことの違いに気づいたことで、それが何だったのかということに一つの仮説を得た。
それは、彼女達は新しい「形式」を作ったのではないか、ということだ。

「形式」の力

この考えを持つようになったのは、ある漫画作品の影響もある。
『らーめん再遊記』という漫画をご存知だろうか。

かつてラーメンを題材にした料理漫画で、様々なラーメン店の課題を、ラーメンの味だけでなく、立地や内装、値段等「飲食業」という観点から解決していく『ラーメン発見伝』という作品があったのだが、『らーめん再遊記』はそのスピンオフ的続編作だ。
料理をテーマにした漫画によくあるように、原作の『ラーメン発見伝』でも「ラーメン対決」をする話が何度もあのだが、そのラーメン対決の中で主人公が決して越えられない壁として、主人公よりもはるかに経験を積んだ天才ラーメン職人かつ凄腕ビジネスマンの芹沢という人物が登場する。
似たようなフォーマットである料理漫画『美味しんぼ』でいうところの海原雄山のようなポジションのキャラクターだが、『らーめん再遊記』はその原作主人公のライバルであった芹沢が主人公となった作品だ。

河合単/久部緑郎『ラーメン発見伝 26』(第237話)
芹沢はおそらく作中一番ファンが多いキャラで、一番右のセリフは半ばミームとしてネットでも有名

『らーめん再遊記』の物語序盤、芹沢はスランプに陥っており、かつて誰よりも強く持っていたラーメンへの熱意が薄れ、誰もが日本一と認め大繁盛していた自身のラーメン店にも翳りが見られる。
そんな中、芹沢はあるラーメン対決をきっかけにモチベーションを取り戻すのだが、その後これまでと全く異なる形でラーメンに関わることを決意して大きく進路を変える。
その関わり方とは「『自分の作品』ではなく、『万人の形式』」を創りたい、というセリフで表されている。

芹沢は今でも超一流の創作ラーメンを作る自信はあるが、同時に自分のラーメンを超えるものを作り出す若き才能が出てきたことも認める。
そうした状況の中、一品一品が「作品」とも呼べるほどの優れたラーメンを作り出すという関わり方以外に、他のアプローチができないかと考えた際、
「芸術の変遷」との比較から、「個性によって傑作を作るクリエイター」ではなく、”味噌ラーメン”や”豚骨ラーメン”といった「万人が共有する形式のイノベイター」を目指したいと思うようになった。

久部緑郎・河合単石神秀幸『らーめん再遊記 2』(第13話)
個人の才覚だけでは到達できないところを目指す芹沢

「形式」が持つ力は大きく分けて2つある。

一つ目は、あまり深く考えずとも、その形式に則ることを意識しているだけで、多くの人間にそれなり以上に受けいれられるものを作ることができる点だ。
豚骨ラーメン店にもピンキリあるだろうが、それでも素人が完全にゼロから考えた創作ラーメンよりはヒット率は高い。

二つ目は、一つ目を補足するものでもあるが、「なぜ多くの人間に受け入れられやすいか」の理由となる力だ。
それは、多くの人が「今日はラーメン、その中でも豚骨ラーメンが食べたい」と思ったときに、人々の頭の中に浮かぶ豚骨ラーメンの「あの感じ」を形式が持っているからだ。
そして、その「あの感じ」は、その形式「だけ」が提供することができる

芹沢はそうした「醤油、味噌、塩、トンコツを凌ぐ形式」を生み出したいと、チェーン店でアルバイトをしたりといった突飛な試行錯誤を続けていくことになるのだが、現在も連載中なので気になる人は読んでみて欲しい。

ラーメン漫画から話が始まったので例えがイマーシブシアターとはだいぶ関係ない方向に行っているが、音楽でいうところの「ジャンル」のようなものを考えると観劇との類似も多いかもしれない。
例えば、クラシックミュージックとジャズを取り上げた時、人によって好き嫌いや向き不向きはあろうが、少なくともそれらに優劣があると考える人はほとんどいないはずだし、僕もそんなものは無いと思っている。
しかし、一方で、その二つを聴いた時に、感じることや感動した時に揺り動かされる場所が違うことも、多くの人にとって同意されることではないだろうか。
少なくとも僕は、感動する2つの音楽を聴いた際の身体的な反応に明らかに差異がある。
それは、繰り返しになるが、どちらが良い悪いではなく、どちらかのジャンルでだけ強く反応するものがそれぞれにあるということだ。

イノベイターが持つ力

ego:pression がやっているイマーシブシアターは、そうした、これまでになかった新しい形式・ジャンルなのではないか、というのが今の僕の考えだ。
もしかすると僕がまだ知らないだけで、イマーシブシアター生誕の地であるロンドンでは ego:pression がやっていることと同じ形式が以前からあるのかもしれないし、仮にそうでなかったとしても演出家に聞けば「自分が好きなAとBを組み合わせただけで新しい要素はない」と答えるかもしれない。
ただ、これまで作られてきた3作が全て素晴らしい作品である、という事実が、彼女達が新しい形式を作った(あるいは「発見した」と言っても良いかもしれない)のではないかと思えるのだ。

どんなものでもいいので新しいジャンルが生まれた時を思い浮かべて欲しい。
結局そのジャンルで一番上手くそれを作ることができるのは、そのジャンルが生まれた時の作品を作った人達ではないだろうか。
ここでいう「上手く作る」というのは、一番の傑作という意味ではなく、そのジャンルが持つ力をいつも毎回最大限発揮してくれる、という意味だ。

例えば、ビデオゲームにおけるアクションアドベンチャーゲームというジャンルでは、『ゼルダの伝説』という傑作シリーズが存在するが、シリーズの作品が毎回多くのユーザーに愛されているのは、作っているクリエイターがこのジャンルを発見した力が大きいと思っている。
もちろん、宮本茂をはじめとした天才達がいるから毎回面白いのだ、という意見は全く否定しない。
だが彼らも『ゼルダの伝説』で何もフォーマットを見つけることができなかったならば、優れた続編を作ることも難しかったはずだ。
知らない人にはチンプンカンプンな説明だろうが、Webサービスを作る際に DHH より上手く Ruby on Rails を使いこなせる、と自信を持って言える人は少ないだろう。

なぜ最初のクリエイターが一番上手く扱えるか、それはおそらく、意識的にであれ無意識にであれ、彼らが一番その形式の「本質と哲学」を理解しているからだと思う。
その形式が生む「あの感じ」、その形式「だけが持つ力」が、どこから生まれてくるかを一番よく知っているのが彼らなのだ

ego:pression イマーシブシアターの「あの感じ」

僕は作り手ではないので、イマーシブシアターがどういう形式で作られれば力を発揮するかは説明できない。
その代わりに、僕がこれまでの ego:pression 3作で受けてきた、そこ以外ではなかなか感じられない「あの感じ」の説明をしようと思う。

大きな物語と小さな物語

一緒に作品を観た友人が「大きな物語と小さな物語が描かれているんだね」と言っていた。
これは僕にとっても非常に的を射たと思える感想で、思わず大きく頷いてしまった。
大きな物語」というのは、その空間で登場人物達全員によって紡がれるストーリーであり、
「小さな物語」は、一人一人の個人としてのストーリーのことだ。

小説や映画では小さな物語を持った登場人物を必ず全員視ることになるが、このイマーシブシアターでは全てを視ることは出来ず、観客がどれかを「能動的に選び取る」ため、より視ることに意識的になる。
その結果、手で触れられる距離にいる登場人物達の小さな物語に心に触れられながら、それらが繋ぎ合わさって語られる大きな物語に感動する。

ただ僕はこの友人の表現に首肯すると同時に、さらに付け加えることがあった。
彼はおそらく小さな物語を、フィクションたる劇中の登場人物の物語のことだとみていたと思うが、ego:pression のイマーシブシアターには、フィクションの世界の登場人物だけでなく、それを演じる実世界の演者(ダンサー)個人も同時に確かに存在している。
だから、物語はフィクションであると共にリアルでもある
普通、非常に良く出来た作品でない限り、フィクションの世界に取り込まれる体験をすることは難しいが、
このイマーシブシアターでは、距離の力とリアルのダンサーへの共感によって「その人物」へと惹きつけられた後、その人物の「リアルとフィクションの曖昧さ」によって容易くフィクションの側の物語に連れていかれる
おそらくそれは、

  • 各登場人物を演じる演者が常に一人で、マルチキャストのような代役が存在ない
  • セリフの代わりに表現される踊りの振り付けを、演じるダンサー本人が行なっている

という制作手法も大きな力となっていることは間違いないだろう。

そして、ひとたび心がフィクションの世界に連れて行かれれば、そこでは大きな物語を「目撃する」のではなく「体験する」ことになる。
この「目撃」と「体験」の差は非常に大きい

二つの「繋がる」感覚

上で書いたことを僕なりの別の言葉で言い換えると、ego:pression のイマーシブシアターではいつも二つの「繋がる」体験をする。

一つ目は、時間や空間をまたぎ、自分が視ている人と物と舞台が繋がる感覚だ。
舞台に散りばめられた様々な物品・道具・装置などの言語・非言語を問わない多くの情報と、その場所そのものの雰囲気、
そして登場人物達が陰に陽に発するコトバを自ら選択して視ていく中で、
それらが一つに繋ぎ合わさって「そういうことなんだ」と、意味を掴みとる感覚。

二つ目は「この人に触れたい」という感覚だ。
目の前で踊っている人間、それがフィクションの中の人物のことなのか、実世界の人物なのかすらもはや曖昧で、
悲しさや苦しみ、困難に立ち向かう意志、それを乗り越えた喜び、なんでもない小さな幸せ、
そういったものを、どうにかしたい、分かち合いたい、そして「僕もここにいるよ」と伝えたい、そういったいくつもの複雑な感情が混ざり合った末に、
目の前の人間に手を差し伸べたくなる瞬間がある。
その感覚が、何よりも好きだ。

補足

今回の記事では ego:pression の演出のみに言及するような形になってしまったが、新しい音楽ジャンルを築いたミュージシャンにバンドメンバー達が必要だったのと同様、演出家がこの境地に達することができたのは、彼女の考えを形にするダンサーが共にいたからこそだと思う。
そして何より、「豚骨ラーメンという概念」を食べることは誰にもできないのと同じように、僕たちが体験し味わうことができるのは、リアルの世界に存在するダンサーや舞台を作るスタッフ達の力によって作られた「作品」だけであり、その作品のクリエイターたる彼らへのリスペクトも常に同じだけ心の中にあることを記載しておく。

また、繰り返しになるが、今回の記事では Sleep No More を始め ego:pression 以外の作品やジャンルも挙げたが、
それによって言及した作品や言及しなかった作品と比べて「どちらがより優れている」ということを言いたいわけではない
そもそも優劣を語るのはナンセンスだと思っているからだ。
例えば、漫画とアニメを並べて、
「漫画なんて、白黒だし、絵は動かないし、音楽すらなくて、リアルな人間が演じた声が入っているアニメに比べたら、劣った表現方法だよ」
という主張を聞いたら、多くの人が首を傾げるだろう。

さらに、仮に ego:pression のイマーシブシアターが真に新しいものだったとしても、全ての人にとって価値がある、とも言わない
僕はミュージカルも大好きだが、「ミュージカルは突然歌い出すのが受けつけない」と全く興味がない人もいるように、イマーシブシアターから何も感じなかったり、場合によっては「嫌いだ」という人もいくらでもいるだろう。
そして、そうした人々を非難するつもりはないし、「これの良さが分からないなんて」などと馬鹿にするつもりも一切ない。

ただ、最後の晩餐ならぬ最後の観劇として、
来週隕石が降ってきて地球が滅亡するけど、今週末NYに行ってミュージカルや Sleep No More を観るか、それとも ego:pression のイマーシブシアターを観るかの二択だったらどうする?と聞かれたなら、
今の僕は迷いなく後者を選ぶ、というだけだ。
その理由は、彼女達に触れられることで動く感情が好きで、それが今のところ、彼女達の作品でだけ味わうことができるからだ。

最後に

あれこれ長く述べてきたが、実は正直なところ、「観る側」が形式を意識することにはメリットが少なく、デメリットが多くあるのでやめたほうがいい。
頭の中でひたすら「豚骨ラーメン、豚骨ラーメン」と唱えながらラーメンを食べていても、それが理想的な豚骨ラーメンであった時にはディテールを味わうための助けになるかもしれないが、
トンコツではない感動的な醤油ラーメンであったり、ラーメンの枠から飛び出るような新しい麺料理であったりしたときに、自分の期待と違うことに意識をもっていかれて、せっかくの貴重な体験を失うことになる。芹沢の言葉を借りるなら「情報を食うな、ラーメンを食え」だ。

そして、ほとんどの人にとっては、ego:pression のイマーシブシアターは「ラーメンの枠から飛び出た新しい麺料理」に近しい、全く経験したことのない未知の体験を与えてくれるもののはずだ。
だから、ここまで非常に長い文章を読んでもらっておいて大変恐縮だが、読んだことはきれいさっぱり忘れて、
来週から上演される新作の!チケットを買い、ただ心をオープンにして、新しい体験を目一杯楽しんで欲しい。

https://www.egopression.com/latestinformation

チケット購入先