「この世界は物語であふれている」
これほど ego:pression のイマーシブシアターに合った言葉はないだろう。
それは、単に今回の『鳳明館物語』に限った話ではなく、彼らが作るすべてのイマーシブシアター作品に言えることだ。
最近何をしていたか
前回のブログからやたらと期間が開いてしまったが、この一年はずっとAIを作っていて、一カ月ほど前にようやく正式にアプリとしてサービスをリリースできた。
ずっとこのAIにつきっきりだったので感覚が麻痺してしまい、世の人々がこのアプリに触れてどのように感じるかを全然想像できていなかったが、予想よりもずっと多くの方々に好意的に受け止めていただけた。
まだまだ発展途上というか、この「会話ができるAI」というものの価値はこれから見出されていくだろうが、少なくともコンピューターとこういう形でやり取りができるんだ、ということを証明できたのは大きな成果だったと思う。
先月はずっと、このアプリの急激なユーザー増の対応に追われていたが、それでも当然というか、僕の人生に欠かすことができない ego:pression のイマーシブシアターが上演されることもあり、3月の週末はいつもの映画鑑賞も封印して、観劇に全力を注いでいた。
どのように物語るか
劇中のあるシーンを見ているとき、ふと、ヒップホップアーティストのコーデーがTEDで話していたことを思い出した。
1枚目のアルバムが大成功した後、全力を注ぎ、満を持して出した2枚目のアルバムの結果が芳しくなく、全部を投げ出して捨てそうになったらしい。
だが、そこで彼はこう考えた
自分の人生を一冊の本だと思えば、
すべての章が完璧ってわけじゃない。
その本をどういう終わらせ方にするかが大事なんだ
絶望の底にいるときには救いにならないだろうが、少なくともそこから抜けようと思っているときならば、いいマインドセットだ。
ナラティブという言葉にも関わる考え方だろう。自分の人生を自ら物語ることで、出来事を前向きに受け止めることができる。
僕の「今の章」はどんなものだろうかと考えた。
だがコーデーのマインドを参考にするなら、今の章がたとえ完璧であろうとも、それはなんら重要ではないはずだ。
鳳明館物語
話を ego:pression のイマーシブシアターに戻そう。
今回の作品は、東京の本郷にある、鳳明館という歴史ある旅館を舞台にして行われた。
最近はイマーシブをテーマにした専用施設ができたりして、イマーシブシアターという言葉が少しずつ社会に浸透してきているようだ。
だが、イマーシブシアターと一口にいっても、それを作る人によって全く違ったモノになる。
ego:pression のイマーシブシアターを観たことがない人であれば、自分が体験したことのある他のイマーシブ作品に類するものだと想像してしまうかもしれないが、彼らの作品は、それらのどれとも異なる、唯一の体験だと断言できる。
旅館内のあちらこちらで同時多発的に、音楽とダンスによって物語が紡がれる中、我々観客がその物語を自由に追いかける。
形式それ自体は彼らがずっとやってきているスタイルを踏襲しながらも、今回の作品もまた、これまでの作品と全く違う形で、素晴らしいものだった。
文学の発明
今作は面白い構成になっていた。
太宰治や谷崎潤一郎といった物語を紡ぐ作家たちが登場しながら、『斜陽』や『春琴抄』など、彼ら小説家が描いた作品の登場人物もまた、同じ場所に現れる。
その多重構造は、舞台と客席の境目がないイマーシブシアターという装置によって、否が応でももう一つの階層を認識させる。
それはすなわち、目の前で踊り、登場人物を演じている「その人」自身もまた、物語を創作している人間である、ということだ。
偉大な作家が相対する、創作することへの恐れや苦しみ。
それは同時に、それを演じている彼ら自身が負った傷や悩みでもあるのだ、と、手を伸ばせば触れられる場所で、たった一人の観客のために踊る彼らに気づかされる。
彼らを応援したい、という気持ちが、物語の中の登場人物への共感なのか、演じている彼らアーティストへの共感なのか、まるで舞台と客席の境界がないイマーシブシアターと同じように、その違いが曖昧となって、ただただその場で描かれるものに心を惹きつけられていた。
『文學の実効』という面白い本がある。
小説や詩といった創作が持つ人の心を動かす力を、神経科学の助けを借りて理解しようと試み、文学が生み出した「25個の発明」を解説している。
この本ではあくまで「文学」が対象だったが、もしその範囲をフィクション全体へと広げたならば、ego:pression のイマーシブシアターが持つ力は、間違いなく「26個目の発明」と呼んでよいものだろう。それほど強い力を持っていると、僕は思う。
この世界は物語であふれている
今作では特に強く惹かれた人物が2人いたが、どちらの演者も、作品の登場人物を演じるだけでなく、その人個人の想いを表現していたのだと、観終わった後に知った。
これがイマーシブシアターではなく、通常の舞台や、映画のような映像作品だったならば、気づけなかったか、あるいは逆に鼻につくと感じたかもしれない。
しかし、同じ時、同じ空間に立ち、他の誰でもない僕個人に向けて表現されるその姿を見ることで、純粋にその心に共感し、「その人の物語」を味わうことができた。
『鳳明館物語』のタイトルの横には「この世界は物語であふれている」という言葉が添えられている。
きっとこの「物語」とは、鳳明館物語という作品の中で紡がれる物語のことだけではないはずだ。
それは何か。
このブログで何度も述べてきたように、「この世界に存在するあらゆる人間、一人ひとりに見るべき物語がある」ということだと思う。
あまりにも当たり前だが、だが油断するとすぐに意識から消えてなくなってしまう、このとても大切なことを、演者自身の物語を感じさせることで、また改めて認識させてくれた、素晴らしい作品だった。
最後に
あなたの「今の章」はどんな物語だろう?そしてそれは、どのように続くだろう?