変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

「生きた人間」が存在する場所はどこか?ego:pression新作イマーシブシアター『MISSION8』を体験して

 ネット上の見ず知らずの人の言葉で傷ついたことはあるだろうか。
 僕はない。もしかしたらあったかもしれないが、記憶には残っていない。
 一方で、見ず知らずの誰かを傷つけたことはあるだろうか。
 僕はたぶんあるはずだ。
 面と向かっては言わないはずの言葉がどうして出たのだろう。

ego:pressionの新作イマーシブシアター感想

 5月の連休中、このブログで何度も紹介しているパフォーマンス団体ego:pressionのイマーシブシアター公演があった。
 自由回遊型の作品は一度見ただけでは全てを味わうことができないと思っていることもあり、いつも複数回観劇に行くことにしていているのだが、だんだんとその回数が増えていて、今回も自己記録を更新してしまった。
 誘った友人の何人かも僕に影響を受けて複数回見ていたのだが、皆複数回行って良かったと言っていた。
 そしてもちろん、それ以外の1度しか見ていない友人達も全員気に入っていた。

 世の中には色んなものの熱心なファンが大勢いて、その人達が勧めること全てに耳を傾けることは不可能だと理解しているので、見て欲しい、とは言わない。
 ただ、僕は幸いにもこの団体のイマーシブシアターを1作目から見ることができているが、もし仮にその存在を知らず、5作目で出会ったとしたら、きっと「もっと早く知りたかった」と思うはずなので、そういう不幸が少しでも減ればいいな、と思って書くことにしている。
(その点においてはかなり「義務」を果たしていると思うので、後から「もっと熱心に薦めといてよ!」という苦情が来てもそれを拒否する権利はあるはずだ)

 

 さて、今作の感想だが、「こういうところに感動した・心が動いた」という話をしていると、過去に書いた感想と似通ったものになりそうなので、今回は今までと少し変えて、この作品の物語で描かれていたあることについて考えたことを書こうと思う。
 そのため、これまで以上にネタバレが多くなる。すでに終わった公演ではあるが、仮にこの作品が再演されることになり、もし貴方がそれを観る前にweb検索等で辿り着いた人なのであれば、読まないことを薦める。
 また、何度も言っているように、ego:pressionのイマーシブシアターの楽しさは、生でダンサーのパフォーマンスを体験することにこそあるので、今回の記事は何らその楽しさを共有できるものではない、という注意も書いておく。

ネタバレあり感想

 今回の『MISSON8』では、隕石落下によって荒廃した未来の地球を舞台に、生存のためのコールドスリープから目覚めた一人の人間と、人類の復活をサポートする作業を人知れず行なっていた8体のロボットたちの物語が描かれる。

 前回の記事でも書いたのだが、僕はひと月ほど前に、友人に誘われて2人で会社を立ち上げた。
 その会社では、人と自然なコミュニケーションが取れるAIキャラクターを作ろうとしていたこともあり、今作『MISSION8』に出てきたロボット達を見ていてすごく考えたことがあった。

 

 登場する8体のロボットは、物語冒頭では「ロボット然」とした、人間らしさのない無感情な振る舞いをしているのだが、コールドスリープから目覚めた人間と接したタイミングで、(一見すると偶然によって)「人工知能機能」ともいえる機能のスイッチが入り、感情や個性を持った存在として動き出す。
 作品の中で演じられていたような人間と変わらない振る舞いをするロボットは、SFの中で描かれることはあれど、今のところ世の中には出回っていない。
 しかし、ChatGPTを使ったことがある人ならわかると思うが、文字列でのやりとりに限定すれば、裏が機械オンリーでも人間とチャットをしているのと同じような体験をすることは可能だ。
 話し相手の人間と同期して笑ってくれるロボットの研究発表もあったし、二足歩行でなめらかに動く人体パーツ以外なら、場合によっては今の技術要素だけでもそうしたロボットを作ることは可能かもしれない。

 そう考えているからこそ、新しく始めた会社でコミュニケーションAIを作ろうと考えたのだが、一方でそうした知識があったがために、『MISSION8』で出てきたロボット達が「そういう」ロボットかもしれない、ということも頭によぎった。

「人間を演じる機械」ではないのか、という疑問

 「そういう」ロボットというのが何かというと、見た目の振る舞いは完全に人間なのだが、その中身を知ると人間とは思えなくなるようなもののことだ。

 そばにいる人間に共感して悲しそうな表情を浮かべたり、何かを楽しみにしながら嬉しそうに笑う。
 あるいは、耐え難い悲痛に対して涙を流す。
 感情を持っているように見えるし、何かをしたいという意思を持っているように見える。

 だが、その場の状況にあった反応を推測することなら、現在のChatGPTにすら可能だ。
 「これこれこういう状況において、人間の通常の振る舞いはどういうものですか?」と聞けば教えてくれるだろう。
 もし『MISSION8』に出ていたロボット達がそいう原理で動いていたとしたら?

 コストをわざわざかけて、ロボットにそのような挙動をさせる必要性がない、と思う人もいるかもしれないが、滅亡した地球に生き残った数少ない人間をサポートする上で、その人間のストレスのケアは非常に重要なはずだ。人と同じように振る舞い、共感してみせることで、人間の孤独を癒すことができるならば、そうしない理由はない。

 そんな考えが浮かんだがために、自分では決して出来ないような他者への共感をはじめ、僕なんかよりもよっぽど人間らしいと思えるロボットの振る舞いを見れば見るほど、「本当は決められたルールに従って機械が生成しているだけのモノなのではないか」という疑問が沸き上がってきた。

 

 物語の中では、結局最後まで僕の疑問には明示的な答えは提示されない。
 エンディングで「ぼくらはみんな生きている♪」と歌詞の無い曲が流れるが、そのこと自体も僕の疑念を解消してくれるものではなかった。

 やろうと思えばもっとはっきりと、ロボット達の人間性の存在、「生きている」と信じられるような背景を描くこともできたはずだ。
 例えば、あのロボット達を開発した人間がいたはずで、その人間からロボットへの時を超えたメッセージを、手紙なり動画なりを使い、ロボットの心の存在をはっきりと信じているような形で表現すれば、見ている側も自然と人間と変わらない存在だと思っただろう。そして、そのような描写があれば、観客もさらにロボット達に感情移入できただろうし、何より今までの作品でもあった「ego:pressionらしい」演出だ。
 その形ならその形で、今作とはまた違った深い感動を得られただろう。

 

 だが、そうはなっていなかった。
 ロボットたちの人工知能がどのような仕組みで作られているかの説明ももちろんなかった。

生きているかどうかは自分が決める

 当然、演出家には何らかの意図があったはずだが、その意図を想像するつもりはない。

 ただ、最後まで見終えて、僕はロボットの心の存在について「選択する」ことができたのだ、ということに気づいた。
 ロボット達の中身が、本当の人間なのか非人間的な機械なのかを選んで決めることができる、という意味ではない。
 仮にロボットの中身がChatGPTだったとしても、「それでもそのロボットを心ある生きた存在とみなす」ということを選択することができる、という意味だ。
 そしてその「選択」は、日常のあらゆる場所で僕自身が自覚的に行わなければいけないことなのだ、ということに気づいた。

 

 街中や電車ですれ違う人、テレビや出版物の向こう側にいる人、あるいはネット空間のあちら側にいる人、そうした人々が「機能として」人間ではない、と思っている人はほとんどいないだろう。自分と全く同じ肉体を持った存在だと思っているはずだし、僕も問われれば、彼らはロボットではない、人間だ、と答える。
 だが一方で、そうした彼らの「人間性」をどれだけ信じているか、生きた存在だとどれほど感じているか、と問われれば、僕は簡単には答えられない。
 悪意なく心無い言葉を発する人達の多くも、実は同じような気持ちなのではないだろうか。

 たとえどれだけ完璧に「自分と同じ人間としてのパーツ」で機能している存在であっても、結局のところ僕自身がその存在を自覚的に認めない限り、影響を与え合い、相互作用可能な生きた人間とみなすことは難しい。
 そう考えると、そもそも生きた人間というのは、その身体の中だけに孤立して実在しているというよりは、僕の心にある何かとの関係性の中にこそ存在しているのかもしれない。

 

 人生のスタンスとして「いろんなことに自覚的に生きたい」と思っていたのだが、まさか他者の存在についてまで自覚的でいないと見失ってしまうのだ、というのは結構衝撃的な事実だが、それを自覚させてくれたego:pressionには、毎度毎度のことだが感謝の言葉を送るしかない。