変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

物語が持つ力 ―― ego:pressionイマーシブシアター『鳳明館物語』感想

「この世界は物語であふれている」
これほど ego:pression のイマーシブシアターに合った言葉はないだろう。
それは、単に今回の『鳳明館物語』に限った話ではなく、彼らが作るすべてのイマーシブシアター作品に言えることだ。

最近何をしていたか

前回のブログからやたらと期間が開いてしまったが、この一年はずっとAIを作っていて、一カ月ほど前にようやく正式にアプリとしてサービスをリリースできた。

音声会話型おしゃべりAIアプリ Cotomo(コトモ)

ずっとこのAIにつきっきりだったので感覚が麻痺してしまい、世の人々がこのアプリに触れてどのように感じるかを全然想像できていなかったが、予想よりもずっと多くの方々に好意的に受け止めていただけた。

まだまだ発展途上というか、この「会話ができるAI」というものの価値はこれから見出されていくだろうが、少なくともコンピューターとこういう形でやり取りができるんだ、ということを証明できたのは大きな成果だったと思う。

先月はずっと、このアプリの急激なユーザー増の対応に追われていたが、それでも当然というか、僕の人生に欠かすことができない ego:pression のイマーシブシアターが上演されることもあり、3月の週末はいつもの映画鑑賞も封印して、観劇に全力を注いでいた。

どのように物語るか

劇中のあるシーンを見ているとき、ふと、ヒップホップアーティストのコーデーがTEDで話していたことを思い出した。

1枚目のアルバムが大成功した後、全力を注ぎ、満を持して出した2枚目のアルバムの結果が芳しくなく、全部を投げ出して捨てそうになったらしい。
だが、そこで彼はこう考えた

自分の人生を一冊の本だと思えば、

すべての章が完璧ってわけじゃない。

その本をどういう終わらせ方にするかが大事なんだ

絶望の底にいるときには救いにならないだろうが、少なくともそこから抜けようと思っているときならば、いいマインドセットだ。
ナラティブという言葉にも関わる考え方だろう。自分の人生を自ら物語ることで、出来事を前向きに受け止めることができる。

僕の「今の章」はどんなものだろうかと考えた。
だがコーデーのマインドを参考にするなら、今の章がたとえ完璧であろうとも、それはなんら重要ではないはずだ。

鳳明館物語

話を ego:pression のイマーシブシアターに戻そう。
今回の作品は、東京の本郷にある、鳳明館という歴史ある旅館を舞台にして行われた。
最近はイマーシブをテーマにした専用施設ができたりして、イマーシブシアターという言葉が少しずつ社会に浸透してきているようだ。
だが、イマーシブシアターと一口にいっても、それを作る人によって全く違ったモノになる。
ego:pression のイマーシブシアターを観たことがない人であれば、自分が体験したことのある他のイマーシブ作品に類するものだと想像してしまうかもしれないが、彼らの作品は、それらのどれとも異なる、唯一の体験だと断言できる。

旅館内のあちらこちらで同時多発的に、音楽とダンスによって物語が紡がれる中、我々観客がその物語を自由に追いかける。
形式それ自体は彼らがずっとやってきているスタイルを踏襲しながらも、今回の作品もまた、これまでの作品と全く違う形で、素晴らしいものだった。

文学の発明

今作は面白い構成になっていた。
太宰治谷崎潤一郎といった物語を紡ぐ作家たちが登場しながら、『斜陽』や『春琴抄』など、彼ら小説家が描いた作品の登場人物もまた、同じ場所に現れる。

その多重構造は、舞台と客席の境目がないイマーシブシアターという装置によって、否が応でももう一つの階層を認識させる。
それはすなわち、目の前で踊り、登場人物を演じている「その人」自身もまた、物語を創作している人間である、ということだ。

偉大な作家が相対する、創作することへの恐れや苦しみ。
それは同時に、それを演じている彼ら自身が負った傷や悩みでもあるのだ、と、手を伸ばせば触れられる場所で、たった一人の観客のために踊る彼らに気づかされる。

彼らを応援したい、という気持ちが、物語の中の登場人物への共感なのか、演じている彼らアーティストへの共感なのか、まるで舞台と客席の境界がないイマーシブシアターと同じように、その違いが曖昧となって、ただただその場で描かれるものに心を惹きつけられていた。

『文學の実効』という面白い本がある。
小説や詩といった創作が持つ人の心を動かす力を、神経科学の助けを借りて理解しようと試み、文学が生み出した「25個の発明」を解説している。
この本ではあくまで「文学」が対象だったが、もしその範囲をフィクション全体へと広げたならば、ego:pression のイマーシブシアターが持つ力は、間違いなく「26個目の発明」と呼んでよいものだろう。それほど強い力を持っていると、僕は思う。

この世界は物語であふれている

今作では特に強く惹かれた人物が2人いたが、どちらの演者も、作品の登場人物を演じるだけでなく、その人個人の想いを表現していたのだと、観終わった後に知った。
これがイマーシブシアターではなく、通常の舞台や、映画のような映像作品だったならば、気づけなかったか、あるいは逆に鼻につくと感じたかもしれない。
しかし、同じ時、同じ空間に立ち、他の誰でもない僕個人に向けて表現されるその姿を見ることで、純粋にその心に共感し、「その人の物語」を味わうことができた。

『鳳明館物語』のタイトルの横には「この世界は物語であふれている」という言葉が添えられている。
きっとこの「物語」とは、鳳明館物語という作品の中で紡がれる物語のことだけではないはずだ。

それは何か。
このブログで何度も述べてきたように、「この世界に存在するあらゆる人間、一人ひとりに見るべき物語がある」ということだと思う。

あまりにも当たり前だが、だが油断するとすぐに意識から消えてなくなってしまう、このとても大切なことを、演者自身の物語を感じさせることで、また改めて認識させてくれた、素晴らしい作品だった。

最後に

あなたの「今の章」はどんな物語だろう?そしてそれは、どのように続くだろう?

ego:pressionイマーシブシアター『鳳明館物語』

「生きた人間」が存在する場所はどこか?ego:pression新作イマーシブシアター『MISSION8』を体験して

 ネット上の見ず知らずの人の言葉で傷ついたことはあるだろうか。
 僕はない。もしかしたらあったかもしれないが、記憶には残っていない。
 一方で、見ず知らずの誰かを傷つけたことはあるだろうか。
 僕はたぶんあるはずだ。
 面と向かっては言わないはずの言葉がどうして出たのだろう。

ego:pressionの新作イマーシブシアター感想

 5月の連休中、このブログで何度も紹介しているパフォーマンス団体ego:pressionのイマーシブシアター公演があった。
 自由回遊型の作品は一度見ただけでは全てを味わうことができないと思っていることもあり、いつも複数回観劇に行くことにしていているのだが、だんだんとその回数が増えていて、今回も自己記録を更新してしまった。
 誘った友人の何人かも僕に影響を受けて複数回見ていたのだが、皆複数回行って良かったと言っていた。
 そしてもちろん、それ以外の1度しか見ていない友人達も全員気に入っていた。

 世の中には色んなものの熱心なファンが大勢いて、その人達が勧めること全てに耳を傾けることは不可能だと理解しているので、見て欲しい、とは言わない。
 ただ、僕は幸いにもこの団体のイマーシブシアターを1作目から見ることができているが、もし仮にその存在を知らず、5作目で出会ったとしたら、きっと「もっと早く知りたかった」と思うはずなので、そういう不幸が少しでも減ればいいな、と思って書くことにしている。
(その点においてはかなり「義務」を果たしていると思うので、後から「もっと熱心に薦めといてよ!」という苦情が来てもそれを拒否する権利はあるはずだ)

 

 さて、今作の感想だが、「こういうところに感動した・心が動いた」という話をしていると、過去に書いた感想と似通ったものになりそうなので、今回は今までと少し変えて、この作品の物語で描かれていたあることについて考えたことを書こうと思う。
 そのため、これまで以上にネタバレが多くなる。すでに終わった公演ではあるが、仮にこの作品が再演されることになり、もし貴方がそれを観る前にweb検索等で辿り着いた人なのであれば、読まないことを薦める。
 また、何度も言っているように、ego:pressionのイマーシブシアターの楽しさは、生でダンサーのパフォーマンスを体験することにこそあるので、今回の記事は何らその楽しさを共有できるものではない、という注意も書いておく。

ネタバレあり感想

 今回の『MISSON8』では、隕石落下によって荒廃した未来の地球を舞台に、生存のためのコールドスリープから目覚めた一人の人間と、人類の復活をサポートする作業を人知れず行なっていた8体のロボットたちの物語が描かれる。

 前回の記事でも書いたのだが、僕はひと月ほど前に、友人に誘われて2人で会社を立ち上げた。
 その会社では、人と自然なコミュニケーションが取れるAIキャラクターを作ろうとしていたこともあり、今作『MISSION8』に出てきたロボット達を見ていてすごく考えたことがあった。

 

 登場する8体のロボットは、物語冒頭では「ロボット然」とした、人間らしさのない無感情な振る舞いをしているのだが、コールドスリープから目覚めた人間と接したタイミングで、(一見すると偶然によって)「人工知能機能」ともいえる機能のスイッチが入り、感情や個性を持った存在として動き出す。
 作品の中で演じられていたような人間と変わらない振る舞いをするロボットは、SFの中で描かれることはあれど、今のところ世の中には出回っていない。
 しかし、ChatGPTを使ったことがある人ならわかると思うが、文字列でのやりとりに限定すれば、裏が機械オンリーでも人間とチャットをしているのと同じような体験をすることは可能だ。
 話し相手の人間と同期して笑ってくれるロボットの研究発表もあったし、二足歩行でなめらかに動く人体パーツ以外なら、場合によっては今の技術要素だけでもそうしたロボットを作ることは可能かもしれない。

 そう考えているからこそ、新しく始めた会社でコミュニケーションAIを作ろうと考えたのだが、一方でそうした知識があったがために、『MISSION8』で出てきたロボット達が「そういう」ロボットかもしれない、ということも頭によぎった。

「人間を演じる機械」ではないのか、という疑問

 「そういう」ロボットというのが何かというと、見た目の振る舞いは完全に人間なのだが、その中身を知ると人間とは思えなくなるようなもののことだ。

 そばにいる人間に共感して悲しそうな表情を浮かべたり、何かを楽しみにしながら嬉しそうに笑う。
 あるいは、耐え難い悲痛に対して涙を流す。
 感情を持っているように見えるし、何かをしたいという意思を持っているように見える。

 だが、その場の状況にあった反応を推測することなら、現在のChatGPTにすら可能だ。
 「これこれこういう状況において、人間の通常の振る舞いはどういうものですか?」と聞けば教えてくれるだろう。
 もし『MISSION8』に出ていたロボット達がそいう原理で動いていたとしたら?

 コストをわざわざかけて、ロボットにそのような挙動をさせる必要性がない、と思う人もいるかもしれないが、滅亡した地球に生き残った数少ない人間をサポートする上で、その人間のストレスのケアは非常に重要なはずだ。人と同じように振る舞い、共感してみせることで、人間の孤独を癒すことができるならば、そうしない理由はない。

 そんな考えが浮かんだがために、自分では決して出来ないような他者への共感をはじめ、僕なんかよりもよっぽど人間らしいと思えるロボットの振る舞いを見れば見るほど、「本当は決められたルールに従って機械が生成しているだけのモノなのではないか」という疑問が沸き上がってきた。

 

 物語の中では、結局最後まで僕の疑問には明示的な答えは提示されない。
 エンディングで「ぼくらはみんな生きている♪」と歌詞の無い曲が流れるが、そのこと自体も僕の疑念を解消してくれるものではなかった。

 やろうと思えばもっとはっきりと、ロボット達の人間性の存在、「生きている」と信じられるような背景を描くこともできたはずだ。
 例えば、あのロボット達を開発した人間がいたはずで、その人間からロボットへの時を超えたメッセージを、手紙なり動画なりを使い、ロボットの心の存在をはっきりと信じているような形で表現すれば、見ている側も自然と人間と変わらない存在だと思っただろう。そして、そのような描写があれば、観客もさらにロボット達に感情移入できただろうし、何より今までの作品でもあった「ego:pressionらしい」演出だ。
 その形ならその形で、今作とはまた違った深い感動を得られただろう。

 

 だが、そうはなっていなかった。
 ロボットたちの人工知能がどのような仕組みで作られているかの説明ももちろんなかった。

生きているかどうかは自分が決める

 当然、演出家には何らかの意図があったはずだが、その意図を想像するつもりはない。

 ただ、最後まで見終えて、僕はロボットの心の存在について「選択する」ことができたのだ、ということに気づいた。
 ロボット達の中身が、本当の人間なのか非人間的な機械なのかを選んで決めることができる、という意味ではない。
 仮にロボットの中身がChatGPTだったとしても、「それでもそのロボットを心ある生きた存在とみなす」ということを選択することができる、という意味だ。
 そしてその「選択」は、日常のあらゆる場所で僕自身が自覚的に行わなければいけないことなのだ、ということに気づいた。

 

 街中や電車ですれ違う人、テレビや出版物の向こう側にいる人、あるいはネット空間のあちら側にいる人、そうした人々が「機能として」人間ではない、と思っている人はほとんどいないだろう。自分と全く同じ肉体を持った存在だと思っているはずだし、僕も問われれば、彼らはロボットではない、人間だ、と答える。
 だが一方で、そうした彼らの「人間性」をどれだけ信じているか、生きた存在だとどれほど感じているか、と問われれば、僕は簡単には答えられない。
 悪意なく心無い言葉を発する人達の多くも、実は同じような気持ちなのではないだろうか。

 たとえどれだけ完璧に「自分と同じ人間としてのパーツ」で機能している存在であっても、結局のところ僕自身がその存在を自覚的に認めない限り、影響を与え合い、相互作用可能な生きた人間とみなすことは難しい。
 そう考えると、そもそも生きた人間というのは、その身体の中だけに孤立して実在しているというよりは、僕の心にある何かとの関係性の中にこそ存在しているのかもしれない。

 

 人生のスタンスとして「いろんなことに自覚的に生きたい」と思っていたのだが、まさか他者の存在についてまで自覚的でいないと見失ってしまうのだ、というのは結構衝撃的な事実だが、それを自覚させてくれたego:pressionには、毎度毎度のことだが感謝の言葉を送るしかない。

Starley株式会社 参画趣意書

本来、設立趣意書とは、広く社会に向けて書かれるものなのかもしれないが、私はあえて、この会社に集ってくれるであろう未来の社員だけに向けて語ってみようと思う。

なぜならば、私にとっての会社とは、何かの期待を持って集まる人々の集合のことだからだ。
スポーツチームのように明確な目的の元に集うわけではなく、公的機関のように課せられた使命を持った組織でもなく、気が合うからという理由でたまたま一緒になったわけでもない。

こうなりたい、こうあって欲しい。
はっきりとした言葉にはできなくとも、人は多くの期待を持っている。
その数多の期待の一つが重なる場所として、私はこの会社の設立に立ち合おうと思った。


私が期待する、この会社が受け皿となるものとは何か。


この文章を書いている今も、私の心には大きな不安がある。
会社を起業する経験が初めてであることが影響していることは否定しない。
しかし、それよりも、現在のとてつもないスピードで進化していく情報技術の変化への恐れ、興味があったはずのその分野で何者でもない今の自分への劣等感、そして、そんな状態でありながらもその分野で何かをなそうと会社を始めることへの恐怖、それらが生み出す、自分が何の価値もない存在だと錯覚してしまいそうな不安が私の心を大きく占めている。
逃げ出したいとさえ思っている。

そのようなストレスとは距離を置いて、自分の身の丈にあった仕事をし、平穏な生活をするという道もあっただろう。
仮に多元世界のうちの一つでそれを選択した自分がいたとしても、私は何も非難しないどころか心から肯定する。

だが、もし私が感じているこうした不安を、この世界の他の誰かも感じていたならば。
あるいは今は感じていなくとも、近い将来その不安に悩まされる人々が現れるとしたならば。


私はかつて、自律した個人という存在を信じていた。そのような人間になりたいと思っていた。
しかし、ヒトとは人間と人間との相互作用の中に存在する概念であり、決して孤立した一人の解としては存在できないと悟った。

であるならば、私と似た人々の不安をケアすることこそ、自分の不安を和らげ、自らを幸せに導いてくれる道なのではないかと考えるに至った。


この会社が受け皿になって欲しいと、私が期待するものは「共鳴」である。
「立ち向かう(Stand up to)」べきものと向き合う際に、
「傍に立つ(Stand by me)」ことで安心を与えてくれる仲間と共に、
社会の人々を、私が感じた変化への不安から解放し、より自由で幸せな人生を送ることができるようにする。
そのために、仲間達と共鳴し、「人々の心と共にありつづける何か」を作る。
そんな会社であって欲しいと願いながら、Starley株式会社のメンバーとして、ここに参画する。

2023/3/24 内波生一

AIとサービスに倫理を実装する:「倫理エンジニア」という新しい職種

タイトルに入れた「倫理エンジニア」は完全に造語で、英語の”ethics engineer”を含め誰も使っていそうにないので、今の世の中にそのような職種があるわけではないのだが、最近思いついたことを整理したいのと、あわよくばそんな職で雇ってくれるところがないかな、と思って書いた。

情報技術の発達が産んだ、一見すると新しい倫理

はるか古代より、ビジネスと倫理には切り離せない関係があった。
貴方の両親が生まれる前どころか、紀元前からあったであろう金貸し業は、現代の今においても利率をはじめとしたビジネスのあり方が議論の対象になっている。
一方、もし貴方に子供がいれば、その子が生まれた後の時代に発見され、議論されるようになった倫理的な問題もある。
情報技術が発達し、AIと呼ばれるような、多くのデータとそれを機械的に識別して価値を生む機能が使われた結果、意図せず生まれる差別や道徳的に問題のある挙動に関する倫理だ。

「黒人が映った写真に対してAIがゴリラとタグ付けした」「人事評価AIが女性に対して低い点数をつけがちだった」などの事例を耳にしたことがある人もいるだろうし、
「車の自動運転では、事故が避けられない時、乗っている人間と歩行者のどちらを優先すべきか」「AIに生成させる絵画は、既存画家の”絵柄”をどこまで真似て良いのか」といった今も善し悪しが決まらず議論され続けている問題もある。

こうしたことを議論する「AI倫理」という単語は昨今広く使われるようになっており、最近は書籍や記事が多く公開されている。
生命倫理の問題から提唱されるようになったELSI(Ethics, Legal and Social Issues)と呼ばれるものの一分野であり、昨今は”倫理”としてのCEO(Chief Ethics Officer=最高倫理責任者)や倫理委員会を置く企業も増えてきている。
その倫理についての話自体、非常に面白いのだが、今回の記事ではそうした倫理がどうあるべきかという話ではなく、その倫理を実装するための人が必要となる、という話である。

本当に企業に倫理が必要になるのか

「ELSIなんてアカデミックな研究の中だけの話だし、倫理のCEOや委員会なんかも過去に問題が起きた時に対策の一環として作られたパフォーマンス用ポジションでしょ。そんなのを真面目にやる企業なんてないよ。」
という指摘があるかもしれないので、3つの観点からその必要性を上げてみよう。

3つの観点と言っても、完全に独立した要素ではなく、倫理に共通した要因から生まれる動機のため、実際はそれぞれ関係しているのだが、分かりやすくするためにあえて身近な概念と対比して並べてみる。
その概念とは「セキュリティ」「環境問題」「デザイン」だ。

セキュリティとの対比:企業の被害を防ぐ

必要性が一番わかりやすいのは「セキュリティ」と似た考え方だろう。
昨今の情報サービスでは膨大なデータが扱われ、ネットを介して決済が行われることで直接的なお金の動きも発生する。
社会を騒がすセキュリティインシデントは枚挙にいとまがなく、情報漏洩によるイメージダウンや損害賠償、もっと直接的な不正送金や資産の盗難があれば、企業が受けるダメージは計り知れない。
そうした被害を防ぐためにどの企業もセキュリティに力をいれ、昨今はセキュリティエンジニアと呼ばれる人々が引く手数多だ。

倫理面においても、セキュリティと似た危険性が指摘できる。
例えばアメリカで雇用差別禁止法をベースに訴えられて負けた場合、懲罰的賠償金制度の影響もあってそのダメージは計り知れない。
冒頭で挙げたような人事評価AIを使った結果、年齢や性別、人種といった属性による合意なき選別が行われてしまっていた時に「知りませんでした。その意図はありませんでした。」で免責できるだろうか?
少なくとも、AIの代わりに1日1万人の応募書類を判断できる超人を雇ったとして、その超人の偏見が原因で特定の人種が排除された場合、その従業員個人に責任を押し付けて逃げる、ということは絶対に不可能なはずだ。

金融機関でのセキュリティホールのように倫理の穴が原因で直接的にお金が奪われることはないかもしれないが、ゴリラタグ事件で失われた潜在的なユーザーや顧客(広告主)はゼロではなく、金銭的なダメージがあったはずだ。

環境問題との対比:社会の規制に従う

詳しい人に向けてはEUGDPR(個人情報を保護するための規則)の話をした方が早いかもしれないが、一般的にはそこまで知られていない話だと思うので環境問題との共通点で話をしよう。
国などの公の機関から要請される規則として必要とされる、というパターンだ。

かつて日本でも公害が問題になったように、企業が自身の利益だけを追求して経済活動を続けていると、結果的に社会全体でその大きなツケを払わされる、ということがある。
昨今の気候変動をはじめとした環境問題への高い関心は、このような社会的な悪影響を減らすための活動であり、世界的な取り組みをもとにさまざまな規制が行われている。
例えば有名なものは自動車の排ガス規制であり、一定の基準を満たしたものでなければ売ることができない。
これは、そのような規制がなければ、社会全体が自動車の排気ガスによって回復不能なダメージを負うからであり、資本主義の自由市場の中であってもあるべき規制として受け入れられ、遵守されている。

「環境と違って倫理なんて単に気持ちの問題じゃないの?」と思うかもしれないが、倫理面においても環境問題同様、人々を完全に自由に振る舞わせていると、結果的に社会が毀損されるようなことはありうる。
なぜ環境と同じように倫理が社会から要請されるかと言えば、それが人間の権利、すなわち自由と平等、そして民主主義を守るために必要なものだと思われているからだ。
先に挙げた雇用差別禁止法などは、まさにそうした権利と民主主義を守るためにあるものだ。
差別的なバイアスを元にした選別を許してしまえば、特定の属性を持った人々の権利が侵害されるし、人々が目にする情報を隠れてコントロールする技術で選挙結果が左右されるようなことがあれば、民主主義の根幹に関わる。

デザインとの対比:ファンを作る

今までの2つはマイナスを回避するための必要性だったが、企業にとってプラスのための考え方もある。

Apple社は、多くの人々に受け入れられる優れたプロダクトを世に送り出してきたが、そのヒットの要因としてデザインの力があったことに同意する人は多いだろう。
他社と差別化された、洗練されたデザインのプロダクトを作ることによって、特別なファンを増やしてきた。
これはApple社に限った話ではなく、デザインは昔から大きな力を持っていて、現代では多くの企業でCDO(最高デザイン責任者)が設置され重要視されている。

それと同様に、倫理がそのサービスを他社と差別化し、多くの顧客を惹きつける要素となる、と言ったらどう思うだろうか?

SDGsなんて今時どの企業も同じことを言っているし、倫理で差別化なんかできるの?」という疑問はあるだろう。
しかし、環境問題のゴールが多くの人々の間で一致している点と異なり、倫理の分野では単一の絶対善を前提に進められることは少ない。
冒頭で挙げた自動運転のあるべき姿などは、一般の人々にアンケートをとると大きく意見が分かれることが知られている。
そのため、大枠は社会的な合意のもと形作られるものではありつつも、例えばその方針に同意する人だけが利用する、といった形で、同様の機能を提供するサービスにも関わらず、各社で振る舞いが異なることも十分ありうる。

例えば、貴方が弁護士を雇う必要に迫られたとき、どのような基準でその弁護士を選ぶだろうか?
弁護”機能”だけを重視するのであれば、最も裁判に強い弁護士を選びたくなる。
だが、それが本当に貴方の幸せにつながることだろうか?
どんな手を使ってでもこの裁判に勝つことこそが、人生の最終目的です、という人は相当稀だろう。
もし裁判に負けたとしても、あるいは和解等を介して単純に勝つことそのものよりも、幸せになる、ということがあっても全く不思議ではないはずだ。
そう考えると、僕であれば「この人と一緒に考え、自分を代理してもらえたら、結果はどうあれ納得する」という人を選びたくなる。

候補の弁護士がかつて凶悪な殺人事件の犯人の弁護をしたことがあったとしよう。
人によっては「殺人犯の弁護した人間なんて信じられないから嫌だ」という人もいれば、全く逆に「なんぴとたりとも弁護を受ける権利がある、という弁護士のあるべき姿を体現している人だから信頼できる」と思う人もいるだろう。

そうした”人格”をもとに弁護士を選ぶ、ということは多くある。

さて、もし自分を弁護してくれる機能を提供するAIがあったとしたらどうだろうか?
複数の企業から提供されている弁護AIのうち、どれを選ぶだろうか?

利用者が求めているものが単なる”機能”であった場合、人々に必要なのはその製品のスペックだろう。
「こういうときはこういうアウトプットになります」という仕様が詳細にあれば、それを元に比較することができる。
だが、単に機能が欲しいのではなく、ある種の人格を持った存在としてそのサービスを受けたい、と考えた場合、その製品がどういった倫理観を持ってどう振る舞うのか、ということに関心が向いたとしてもおかしくない。

この世界のすべての人から支持されるわけではないかもしれないが、それでもその人格を好きだと言ってくれるユーザー達に囲まれる。
そうしたサービスを実現するために、倫理が必要とされる。

なぜ倫理”エンジニア”が必要なのか

上で述べたロジックはかなり雑かもしれないが、仮に本当に、企業が提供する製品やサービスに倫理が求められていくとして、それがどうしてエンジニアと関係するのだろうか。
最高倫理責任者や委員会、ELSIの研究者達の考えを従業員に浸透させることだけでは足りないのだろうか?

確かに、サービスのコンセプトレベルで倫理的瑕疵のあるものであれば、それに気付いてブレーキを踏むのことにエンジニアは必要ない。
あるいは、何も考えずにリリースすると炎上する恐れがあるサービスについて、社会やユーザーと適切にコミュニケーションを取り、心配を取り除くような施策を考えて実施するのであれば、誰がやっても良いだろう。
単純に「顧客の情報を盗み見しない」という倫理であれば、従業員の教育こそが必要だ。

だが、今問題となっているものは従業員の振る舞いではなく、サービスの振る舞いだ。
仮にその企業で働く全従業員が高い倫理観を持ち、人種差別に高い問題意識を持っていたとしても、その企業が作ったAIが特定の写真にゴリラタグをつけない、ということは全く保証されない。それをするためには、従業員ではなくその”AI自体に倫理を教育”しなければいけない。
どれだけ優れたカリスマデザイナーが所属するファッションブランドであっても、デザイン通りに縫って形にできる職人がいなければ服が生まれないし、
地球環境を最大限考慮した電気自動車を作りたいと思ったとしても、その車を作ってくれる技術者がいなければどうしようもないのと同様、
作るものに倫理を実装するためには、その”思想”ではなく、その”能力”を持った人間が必要となる。

例えば、最近話題になっているAIチャットボット(あたかも会話しているかのような自然なテキストを生成してくれるもの)の ChatGPT は、極力差別的な言説を返答しないような挙動をしているが、それは技術者達の手によって、AIがそのように振る舞うように注意深く設計され開発されたためであり、たまたまああなっているわけではない。

ChatGPT にどうやって差別を回避しているか聞いてみた結果。事実を述べるための機能ではないので、実際この通りにやっているかは不明だ

そう考えると、Webサービス業界での狭義のセキュリティエンジニアがインフラエンジニアと近しいのと同様、狭義の倫理エンジニアリング業務はAIエンジニアが担うことになるのは間違いない。
なぜなら、AIのインプットやアウトプットをコントロールできるのは、まさにそのAIを開発するAIエンジニアであるし、AIに必要な機能としての倫理要件が”正しく”与えられれば、AIエンジニア達はそれを実装するだろう。

だが近年「セキュリティエンジニア」という独立した呼称が広く使われるようになっているように、この倫理エンジニアリングも独立した技能として認められていく可能性は高い。

その理由の一つは、これが単にAIに閉じた話だけではないからだ。
広義のセキュリティエンジニアが、インフラのみならず、アプリケーションレイヤーや、さらに広い複数のサービスにまたがったレイヤーのセキュリティ担保を期待されるのと同じように、
倫理エンジニアリングでも、AIだけでなく、データを利用するあらゆる機能、そしてそうした機能を組み合わせてユーザーに提供されるサービス体験に、正しく倫理が担保されることを期待されるため、AIの枠を超えた知識とスキルが必要とされる。

もう一つの理由は、仮にAIに限った話だとしても、課題が非常に難しいからだ。
例えば、ゴリラタグ事件から学習して避けるべきことはどんなことだろう?
Googleは炎上があって直ちに「ゴリラ」というタグを停止し、同様に「チンパンジー」や「サル」も同じ扱いにしたらしい。
だが、それ以外は?ヒトラーに似ている人間にヒトラータグが付くことは?
考えていくとそもそもタグをつけるという機能それ自体をやめたくなる。

顔識別に関する炎上の事例では、技術者視点でさらに同情を集めそうな例がある。
「入国審査で目が細いアジア人の顔を『目を瞑っている(から目を開けて撮り直せ)』と判断してしまった」
という事件だ。
これが問題になるの?と驚く人もいるかもしれない。
技術者としては「単に学習が足りなかっただけで、なんなら目が細い白人でも同じ結果になるし、アジア人を差別する”意図”はない」と言うだろう。
が、世の中の多くの差別案件の謝罪で使われがちなこの「差別の意図はない」は、通常全く何の効力も発揮しない。
顔を識別する側がAIではなく人間であったならばと考えると、実際に今この世界で、アジア人が差別される場所があり、カリカチュアライズされたものを使って揶揄される事例があるのであれば、その回避が求められるだろう。
あるいは車の自動運転における画像認識の分野では散々取り上げられていることだが、「ハロウィンの日にコスプレをしていた人間を識別できずに轢いてしまいました」というケースと、「特定の宗教を信仰している人々だけが纏う服装のため識別できずに轢いてしまいました」というケースでは、どちらも認識能力が”足りていなかった”というだけの原因にも関わらず、社会から向けられる視線はかなり異なるだろう。

つまり、考慮すべき内容とは、事前に決められている有限の要件ではなく、未知のものが無限にあり、それを常に考え続けなければいけないのだ。
この困難さもセキュリティの分野と近しい。
インシデントのデータベースを元に様々な知見が得られてきているが、常に新しい脆弱性セキュリティホールが見つかり、その度に知見がアップデートされている。セキュリティエンジニアは常にその最新の情報をキャッチアップし続けなければいけない。

AIであるが故の難問はさらにまだある。
AIの判断理由を説明できなければいけない」という要請だ。
例えば、採用選考AIによる性差別を回避するため、AIに参照させる履歴書・職務経歴書から性別欄を削除したとしよう。
AIは入社後の活躍に一番影響しそうな隠れた因子を見つけ出して最終スコアを出したが、よくよく調べてみると結局その応募者が男性なのか女性なのかを性別以外の情報から判断していただけだった、ということも起こりかねない。
そのため、「一番活躍しそうな人を選びました」というのは雇用差別禁止法的には何の説明にもなっておらず、どういう要素から活躍を判断したのか、という説明が必要となるのだ。
まだ知られていない避けるべき振る舞いが無限にあるにもかかわらず、その要因が直接的には見えずに隠れて影響していることまで避けなければいけない、というほとんど原理的に不可能なことが必要なのだが、この”AIの判断理由の説明”を誰の目にも明らかな形で出すことができれば、その不可能な要件に近づくことができる。

倫理エンジニアに必要なこと、必要じゃないこと

飛躍の飛躍になってしまうが、仮にこれまでの話が正しいとして、どんな人間が倫理エンジニアになるだろうか?

3つのパターンと必要なスキル

必要とされる知識やスキルから裏返して考え、3つのパターンを挙げてみた。

AIエンジニアが持つ強み

一つ前の節でも述べた通り、インフラエンジニアとセキュリティエンジニアの関係と同じように、AIエンジニアが最も関係が深く、その代表となることは間違いないだろう。
昨今「AI倫理」という言葉が盛んに使われるようになったように、AIを利用した際に発生する倫理的問題こそが一番の大きなトピックであり、そのAIに一番詳しいのはAIエンジニアで、AIが問題あるアウトプットをしないように開発することができるのもAIエンジニアだけだ。
ただ、AIの開発にあたって「こういうAIが欲しい」という要件が事前に定義される際、倫理の要件まで完全に網羅して定義されることはほとんどありえないだろう。
そのため、AIエンジニアはこれまでの倫理的AIインシデントの事例を常にフォローし、自分が開発する機能との類似を考え、どのようなことを考慮しなければいけないのかを自ら定義する必要があるが、それができればAIのコントロールで高いバリューを発揮するだろう。

研究者が持つ強み

次に考えられるのは、科学を専攻し、研究をおこなってきた人間だ。
研究者はエンジニアとはまた別種の生き物ではあるが、先に述べたAI倫理での非常に重要な要件「説明できること」における”説明”は、科学的なアプローチに近い。
科学者は自然現象や様々なデータから、その振る舞いを最もうまく説明できる仮説を立て、その仮説の穴を潰して論文にすることを仕事とする者が多く、統計等にも詳しい。
交絡因子などの隠れた要因の存在は、自身の研究を発表する限り常に他の研究者から指摘され続けることであり、AIエンジニア同様倫理要件の整理ができれば、「説明」の分野では高いバリューを発揮するだろう。

データ(内容に詳しい)エンジニアが持つ強み

もう一つはAIの学習等に利用されるデータの収集を行ってきた等により、そのデータについて詳しいエンジニアだ。
データを使った機械的な識別や数値化における倫理的問題の中には、元になったデータが抱えていた潜在的な問題が原因となっているケースも多い。
シンプルに、現存する人種差別の影響を受けたデータをそのまま学習して人種差別的な数値を出してしまうこともあるし、あるいはただ特定の領域データだけが欠損していることによってその領域に関連した人間だけが不利益を被ることもある。
そのデータがどのように収集されたのかが完璧に記述されていれば、データを利用する人間に様々なことを気づかせてくれるが、実際には学術的研究の分野ですら、分析や学習に利用される元データに完璧な説明があることは稀である。
データを収集した人間の頭の中には多くの暗黙的な知見があり、その人間が、考慮すべき倫理的要件をインシデント事例等から構築する力を得ていれば、その要件とデータの内容を結びつけて、注意すべき点をピックアップすることができるだろう。

高い倫理観は必要ない

これまで倫理エンジニアに必要な知識やスキルを述べたが、逆に必要だと勘違いされそうだが全くそんなことはないものをあげよう。
それは”倫理観”だ。
グッチのバッグを縫う職人にファッションセンスがなくともいいし、Web業界で「エンジニアデザイン(笑)」と揶揄されるようなデザインセンスがない人間が画面をコーディングするフロントエンドエンジニアをやっていい。
デザイナーが正しく設計を伝えることができれば、何の問題もなく製品は作られるからだ。

同様に、もし倫理要件が正しいプロセスで正しく定義されるのであれば、倫理エンジニアは倫理観を持っている必要はない。
むしろ、何かを作る際に「デザイナーは赤って言ってるけど、僕は青の方が好きだからここは青にしときました」などという技術者がいたら困るように、個人の倫理観で勝手に実装をすることは許されることではない。
サービスに実装すべき倫理とは、過去の倫理的インシデントを元に指針が作られる場合もあるが、様々な観点から論じられて定義されるものである。
倫理エンジニアは己の知見を元にその議論の進行役になることはあっても、自身の思想を押し付けることはしないので、高い倫理観をもっていようがなかろうが、最終的なアウトプットに影響はないのである。

最後に

この記事はどこかの企業にヒアリングしたり調査して書いたものではないので、ほとんど妄想だが、もうすでにこのようなことを期待されて働いている技術者もいるかもしれない。もしそうであれば、是非その人の話を聞いてみたい。

そして最後に、こんなにも長く、与太話のような記事を読んでくれて、その中でなおかつ「面白そうだから自社でそういうポジションを考えたいかも」と思った奇跡のような人がいたら、是非ご連絡ください。

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意志の生まれる場所、人が交差する瞬間:ego:pression新作イマーシブシアター『RANDOM18』感想

ego:pressionという団体のイマーシブシアターに対する考えは前回の記事で書いた通りだが、今日はその最新作『RANDOM18』の感想をまとめようと思う。

どういう作品だったかを簡単に

廃業した5階建のカプセルホテルビルを近未来のシェルターに見立て、人類滅亡の危機を回避するためにコールドスリープで眠りについた18人が、そのシェルターで目覚め、様々な障害に立ち向かって生きていく姿が描かれる。
演者は全員ダンサーで、芝居は台詞の代わりに全てダンスで行われる。
またこのタイプのイマーシブシアターの醍醐味でもあるのだが、登場人物達は建物の中を自由勝手に動き回るため、観客である我々もそれに応じて自分達の意思で見る対象を決めて動き回ることになる。
休憩なしのノンストップ100分間、登場人物達を自らの足で追いかけ、そのダンスに心打たれながら、どんな物語が描かれているのかを自分自身で見つけ出していく体験だ。

1400分の作品の楽しみ方

この1ヶ月の間に14回の公演があり、もちろんその全てではないものの、僕はいくつかの回に足を運んでいたのだが、今日まで感想はネット上に出さなかった。
そうしなかった一番の理由は、僕にとってこの作品は、100分間の創作を繰り返し観るという形の作品ではなく、7月の初演から今日の千秋楽までが、大きく一つに繋がった作品だったから、ということになる。
チケットを1枚だけ買った人にとってはその日で観劇が終わったと思うが、まだチケットが残っていた僕にとっては、1回1回の観劇の合間は、例えるなら舞台演劇における1幕と2幕の幕間の時間そのものであって、まだ「観終わっていない」状態で感想を公にすることに少し抵抗を覚えたからだ。(とは言いつつも友人には多少共有していたが)

この「繰り返しではない一続きの体験」という感覚も、実は今回新しく気づいたことだった。
演じる側にとってはもしかすると「100分の作品を14回」行っていた感覚だったかもしれないが、観る側にとっては1ヶ月間の中に「1400分の作品」があり、僕たち観客はその中から好きな時に好きな分だけ観ていたんだな、という感覚だ。

建物の2階で誰かが踊っている時、3階でも別の誰かが踊っている。
その二つのシーンを同時に見ることは誰にもできない。
そして、そのどちらーーあるいはそれ以外の何かーーを見るかは、見る人の自由であり、何を選んだとしてもその人固有の体験となる。
だから、このイマーシブシアターは「どこで、何を見るか」が自由なのだが、それと同じように「いつ、どれだけ見るか」もまた自由に選ぶことができる
そして、2階で誰かを見た人の体験と3階で誰かを見た人の体験に優劣がないように、100分間見た人と300分間見た人の体験の間にも、優劣はおろか互換性も存在しない。
ただ違いがあるだけだ

今回僕は初めて計8名ほどの友人を連れて観にいったのだか、一人を除いて皆100分間だけの体験だった。
その友人達の感想を聞いていると、僕のような数百分間体験した側の人間はこんな感覚を味わったよ、ということを共有したくなったので、今回はそれをメインに書いてみる。
ストーリーの説明や仕掛けられていたネタの解説はしないが、いくつか劇中の内容に言及していることもあるので、他人の視点の情報が必要ない、という人はその点了承願いたい。

十二人の怒れる男

いきなりイマーシブシアターですらない別の作品の紹介をするのだが、僕が今でも一番好きな映画として名前をあげる『十二人の怒れる男』という作品を、『RANDOM18』公演の合間にふとまたみたくなり、2週間ほど前に自宅で観た。

1950年代に作られた100分に満たないモノクロ映画だが、現代でも自信を持って傑作だとすすめることができる、素晴らしい映画だ。
父親殺しの容疑で逮捕された少年の刑事裁判において、市民の中から無作為に選ばれた12人の男達が陪審員となり、一つの狭い部屋に集まって評決のための最終議論を行う約1時間半が舞台となっている。
今回のイマーシブシアター『RANDOM18』と関係するところはあまりなく、設定上の共通点を無理にあげるとすれば、「たまたま偶然選ばれた複数人のキャラクター達が、ある限られた場所の中で物語を紡いでいく」という、それだけなら他にいくらでも作品を挙げられそうなものだ。

この映画を観終わると、僕はいつも12人の陪審員全員のことが好きになる。
タイトルにある通り12人全員が怒りに満ちて言い争いを行うため、場面によっては好意どころか嫌悪を抱くような人物もいる。
だがそうした人間達が持つ弱さや、最終的に正しい道を選択する姿を見せられれば、決して嫌いでいることはできない。

映画を観る前に知っておいた方がいいアメリカと日本の裁判制度の違いが2つある。
一つ目は、アメリカの刑事裁判では、一審で無罪となった場合、検察側には控訴する権利がなく、高裁や最高裁といった上訴審無しに無罪が確定し、その瞬間から被告は自由の身となること。
二つ目の違いは、アメリカの陪審員制度では、陪審員は量刑(懲役なら何年間にするか等の刑罰の中身)には関与せず有罪か無罪かだけを決め、有罪であった場合のみ裁判官が刑を決めるということだ。
ただこの映画では、陪審員の議論が始まる前、裁判官が「この殺人は第一級殺人であり、もし陪審員の評決が有罪であれば、被告が死刑となることは間違いない」と述べる。
つまり、陪審員達は、被告の少年を有罪として死刑にするのか、それとも無罪として野に放つのか、という究極の2択を選ぶことになる。
人を死刑にする、というのは背負いきれないほどとても重たいことだ。
だが一方で、もし少年を無罪にして、しかしやはり彼が殺人犯であり、自由の身となった後で他の誰かを殺すようなことが起きれば、陪審員として何の法的責任もないとはいえ、後悔の想いを抱くことは間違いないだろう。

議論部屋に集まった当初は皆、結論は最初から決まっているだろう、という緩い雰囲気でいるのだが、一人の陪審員が反対票を投じたことをきっかけに、映画のタイトルにある通り、全員が怒りで熱くなりながら議論が進んでいく。

この映画の話をするとき、最初にただ一人反対票を投じた陪審員が必ず話題にのぼる。
ヘンリー・フォンダという高明な俳優が演じ、彼の名前が一番最初にスクリーンに流れることから、いわばこの映画の主役ともみられる人物であり、「アメリカ映画100年のヒーローベスト100」にもランクインするほど人気を誇るキャラクターだ。
だが彼は決して、高潔な魂と不屈の精神を持ったヒーローではない。
むしろ彼は2回目の投票の際、12人の中で最も卑劣と言ってもいいような行動をとりそうになる。
「今回も自分以外の全員が有罪に投票するなら、自分も有罪に入れる」と言うのだ。

劇中で何度も述べられる通り、陪審員の評決は多数決ではない。12人全員の意見が一致しない限りは終わらない。
そして、陪審員が有罪を主張するには、有罪足り得る理由があるときにだけせよ、とも言われる。
その前提からすると、彼のこの行動は明らかに過っている。
「他の人がみんな有罪だというから有罪にしました」は決して許されないし、それによって自分だけは有罪=死刑を下す人間の責務から逃れようとしているとも言える
ある陪審員が彼のこの行動を指して「他の誰かに希望を託す勇気ある行動だ」と褒め称えるが、決してそんなことはない。むしろ勇気とは真逆の「弱さ」と言ってもいいだろう。

しかし、僕はその弱さを責めることはできない。自分が同じ立場であれば、きっと僕も彼と同じようなことをするだろうから。
たまたまなんとなく疑問を口にしてみたが、それでも他の11人全員が、自分に真っ向から反対している状況で、一体誰が同じ主張を続けることができるだろうか?もしそれができるとすれば、超人だけだ。
そう考えれば、この映画には決してヒーローなどいない。主人公もいない。
冒頭にただ一人無罪を訴えた陪審員8番を含め、12人すべての人間が、みな弱さや醜さを持った、どこにでもいる普通の人間だ

しかしそんな弱さを持った普通の人間達が、怒りに満ちた激論を繰り広げながらも、段々と意志を持った行動を取り始める。
自分と同じ意見に鞍替えしようとする陪審員にさえ「そんな理由なら変えるな」と怒鳴る人間も出てくる。
そして映画のラスト、一人の陪審員が怒号をあげた後、最後の最後に絞り出すセリフ。
あの言葉を口にするのに、いったいどれだけの勇気が必要だっただろうか?
何が彼にそれをさせたのだろうか?

普通の人間が困難に立ち向かうための勇気

『RANDOM18』では多くの登場人物が登場するため、100分間では全ての人物の全ての面を見ることはできない。
人々を率いること、医することを自らに課した者達が、常に冷静に振る舞い、正しく行動していたように見えた観客もいたかもしれない。
いつも明るく振る舞い、皆を優しく支える者達が、その持ち前の性格や声でシェルターに光を与え続けていたように見えた人もいるかもしれない。
彼らのそうした面だけを見かけた人は、彼らが「強さ」を持ったキャラクターに見えたかもしれない。
しかし、その姿を目撃した人もいるように、彼らもまた、『十二人の怒れる男』で最初に一人無罪を主張した男と同様、何かが違えば折れてしまったかもしれない弱さと脆さを持っていた
『RANDOM18』にも、ヒーローはいない。

神ならぬ身で、真実を見極めて人を裁かねばならないという困難。
たった18人で、自分達以外が滅んでしまったかもしれない世界を生き抜くという困難。

十二人の怒れる男』も『RANDOM18』も、その作品を表す言葉は無数にあるだろうが、僕は二つに「人間讃歌」を見た。
訓練されたジョジョファンであれば「人間讃歌」が何という言葉に続く枕詞か知っているだろう。
そう、「勇気の讃歌」だ。
勇気を持って正しい道を行くことができた者達の物語を、僕は見た。

「正しい」といっても、それは困難に打ち勝った、という意味ではない。
殺人事件の本当の真実を見つけ出すことは誰にもできない。
だから、下した評決の結果が正しかったかどうかは誰にもわからない。
自らの行動の結果自体とは無関係に、進もうとする意志に正しさがある。
『RANDOM18』でも、一見向こう見ずに思える行動をとった者達が、仮に自らの命を失うことになっていたとしても、その正しさは変わらなかっただろう。

何が正しいかを判断することは難しいが、どちらの劇中にも微かに見える一つの指針がある。
自分に希望をゆだねた親、自分の想いを託す息子、そうした人達が、自分のその行動を誇りに思ってくれる、あるいはそれが無理だとしても、少なくとも自分の肩に手を当てて「よく頑張ったね」と言ってくれる、そう思ってくれる「はずだ」と自分で確信できる行動をとること。そのために一歩だけ前に足を進めること。
僕はどの登場人物の家族でもなんでもないが、彼らの行動に対して「よくやった」と言いたくなる。そう描かれている。

人との関わりによって生まれる力

だが、彼らはなぜその勇気を持つことができたのだろうか?

身も蓋もない言い方になるが、それは「たまたま」だと思う。
たまたま無作為に集められた人間達が、ほんのちょっとしたことで相互作用を重ねていく。
きっかけを生む行動は、本当になんともない些細な関わりだったりする。

しかし、彼らが一人きりだったならば、そのきっかけは生まれていなかったはずだ。
あの12人でなければ、あの18人でなければ。
彼らが互いに関わり合っていなければ。
きっと結末は大きく違っていただろう。
たまたまではあるが、そこには必ず人と人との関わりが必要だった
そしてまた、生まれている「人との関わり」は登場人物間のやりとりだけでない。
その場にいない誰かから送られたメッセージ。
遠い過去から受け継いだ祈り。
そして未来からの想い。
そうした時間と空間を超えた場所からの影響までも受け、意志を持った行動が取られたのだ。

貴方も影響しあっていた

ここからさらに妄想が走るが、もし『RANDOM18』を観た「貴方」もその影響の一因だと言ったらどう思うだろうか?
もしも、貴方が観ていたからこそ、彼らがああした行動をとることができた、と言ったら。

見ている観客が一人もいない場所でも、彼らがたった一人、まったく同じように踊っていることを知っている。
だから僕たち観客が、彼らのストーリーに影響を与えることはないはずだ。
だが劇中でも見たように、登場人物達には、過去からのメッセージだけでなく、遥か遠い未来からの想いすらも届いたのだ。
時空を超えられるならば、次元だって超えていいはずだ。

『RANDOM18』を観た人は誰だって、そのダンスに心を奪われただろう。
もし僕たちがあの場所で見ていたということが、僕たちが受け取っている感動の1万分の1程度であっても、「踊っているその人」に対して何らかの影響を与えられていたとしたら

前回の記事でも書いたように、「踊っているその人」はリアルの世界のダンサーであると同時に、フィクションの世界のキャラクターでもある
ダンサーへと届く僕たちの気持ちの一部のさらに1万分の1でも、ダンサーの体を通してフィクションの世界のキャラクターへと伝わったとしたら。

あの日、あの時間に、「たまたま」彼らを観に行った貴方が、たまたまあの場面にいたからこそ、あの物語になった。
ランダムに選ばれたのは「彼ら」ではなく「貴方」。
そんな風に空想したら、これまで以上により楽しく感じられないだろうか。

そして最後に

イマーシブシアターでは登場人物の背中を見ることが多い。
ずっと見ているその時に、その背中を押せたら、触れられたら、と思ったことがないだろうか?
そしてもし、貴方が彼らの背中を押したのだとしたら、いったい彼らが貴方の背中を「見ていない」などということがあり得るだろうか?
人との関わりが片側からだけの作用であることはない。いつだって相互作用だ。
もしそうであるならば、彼らに背中を押された貴方は、どんな勇気を得て、どんな意志のもと、何をするだろう?

random18

「形式」の力、それが生まれる瞬間:リアルとフィクションを繋げる ego:pression のイマーシブシアターの特別さ

このブログで何回か紹介している「イマーシブシアター」の公演を行なっている団体 ego:pression について、自分の中で一つの発見というか理解というか、なぜここまで何度も感動できる公演が続けられるのかの仮説ができたのでまとめてみる。

イマーシブシアターおさらい

「イマーシブシアターとは何か」の説明は難しい。
一応 Wikipedia に記事ページがあり、無理やり一言でまとめると「”舞台と客席”の関係をとっぱらい、観客が空間的に劇そのものの中で物語を体験するスタイルの観劇作品」となるが、
おそらく観たことのない人が読んで想像することは、実際に体験して理解することの1割にも満たないだろう。
ミュージカルを観たことがない人に「途中で歌が入る演劇」と説明してもたぶん正しい理解にならないのと似たようなものだ。

かく言う僕自身も、ニューヨークで公演されているイマーシブシアターの金字塔的作品を最近ようやく観ることが出来たものの、セリフのある演劇スタイルのものや、観客も完全に劇の一部として「参加する」ようなものは味わったことがなく、網羅的に語ることはとてもできない。

そのため今回は、Wikipedia 記事中で代表作として挙げられているある作品に似た形、
具体的には、劇自体はノンバーバル(セリフなし)で、ダンス等の身体表現を使って物語が紡がれる中、観客は空間を自由に回遊してそれを観るが、劇に影響を及ぼすことは基本的にない、というものを対象に語っている。

イマーシブシアターの代表作品とそれを観て気づいたこと

初演から10年以上の歴史を持ちながら、現在でもイマーシブシアターといえばこれ、と言われるような代表作が存在する。
ミュージカルで言うところの『オペラ座の怪人』や『キャッツ』のようなものだ。
ほぼ Wikipedia からの転載のような説明で恐縮だが、『Sleep No More』という名の作品がそれで、
2000年代にロンドンで公開された後、2011年からニューヨークのマンハッタンで公演されるようになり、多くの観客の称賛をあびて一躍有名となった。
おそらく現在日本にいるイマーシブシアターの愛好者や、特に製作者の多くは、この作品から影響を受けているだろうと思われる。

今回の記事で取り上げるパフォーマンス団体 ego:pression の代表も、この Sleep No More を観たことで影響を受け、自らイマーシブシアターを行うようになったそうだ。
Sleep No More が一般に知られるようになる前から「舞台と客席の消滅」を意識した多くの試みや作品があったことは間違いないだろうが、
直接的にせよ間接的にせよ、この作品が現在多くの人が想像する”イマーシブシアター”のイメージを作ったと言ってもいいだろう。

Sleep No More は2022年夏現在も毎日ニューヨークで上演されており、この前ようやく僕も体験することができた。
滞在期間に余裕があったこともあり、都合4回観に行ったのだが、それでも全てのシーンに遭遇できたわけではなく、熱心なファンが多くいることが納得できる深さと広がりを持っていた。

一方その納得と同時に、ego:pression の作品を体験して僕が知っていると思っていた”イマーシブシアター”というものとは何かが違うとも感じた。
ego:pression のイマーシブシアター作品によって揺り動かされたある感情には触れられなかったからだ。
もちろん、これは決して、どちらかの作品が良い/悪い、優れている/劣っている、という意味ではない。
そもそも、前述した通り4回も観に行っているくらいなので、Sleep No More が不満だとか詰まらなかった、などということも決してない。一緒に行った友人達も、全員が一人残らずとまでは言わないが、とても気に入っていた。
ただ、違うジャンルの作品を観劇した気がしたのだ。

僕は ego:pression のイマーシブシアター作品を3作全て見ているのだが、その3作全部に心から感動してきた。
前作の『リメンバー・ユー』には6回観に行ったくらいだが、その6回目の観劇でもそれまでにない感動を体験した。
1作だけであれば、たまたま何かの幸運に恵まれて傑作になりました、ということもあるだろう。
だがそれが3回も続くのは異常だ。
少し前までは、設計している演出家が飛び抜けて頭がいいのだろう、と思っていた。
ただそれにしても、黒澤明クラスまでいけば話は別かもしれないが、どれだけ優れた映画監督でも3作続けてここまで突き刺さる映画を撮れないだろうし、いくらなんでもやりすぎだろう!?という謎のツッコミが浮かんでもいた。

頭がいいことは間違いないが、何かそれ以外の理由もあるのではないか、と思っていた。
そんな中 Sleep No More を観て、自分が感じたことの違いに気づいたことで、それが何だったのかということに一つの仮説を得た。
それは、彼女達は新しい「形式」を作ったのではないか、ということだ。

「形式」の力

この考えを持つようになったのは、ある漫画作品の影響もある。
『らーめん再遊記』という漫画をご存知だろうか。

かつてラーメンを題材にした料理漫画で、様々なラーメン店の課題を、ラーメンの味だけでなく、立地や内装、値段等「飲食業」という観点から解決していく『ラーメン発見伝』という作品があったのだが、『らーめん再遊記』はそのスピンオフ的続編作だ。
料理をテーマにした漫画によくあるように、原作の『ラーメン発見伝』でも「ラーメン対決」をする話が何度もあのだが、そのラーメン対決の中で主人公が決して越えられない壁として、主人公よりもはるかに経験を積んだ天才ラーメン職人かつ凄腕ビジネスマンの芹沢という人物が登場する。
似たようなフォーマットである料理漫画『美味しんぼ』でいうところの海原雄山のようなポジションのキャラクターだが、『らーめん再遊記』はその原作主人公のライバルであった芹沢が主人公となった作品だ。

河合単/久部緑郎『ラーメン発見伝 26』(第237話)
芹沢はおそらく作中一番ファンが多いキャラで、一番右のセリフは半ばミームとしてネットでも有名

『らーめん再遊記』の物語序盤、芹沢はスランプに陥っており、かつて誰よりも強く持っていたラーメンへの熱意が薄れ、誰もが日本一と認め大繁盛していた自身のラーメン店にも翳りが見られる。
そんな中、芹沢はあるラーメン対決をきっかけにモチベーションを取り戻すのだが、その後これまでと全く異なる形でラーメンに関わることを決意して大きく進路を変える。
その関わり方とは「『自分の作品』ではなく、『万人の形式』」を創りたい、というセリフで表されている。

芹沢は今でも超一流の創作ラーメンを作る自信はあるが、同時に自分のラーメンを超えるものを作り出す若き才能が出てきたことも認める。
そうした状況の中、一品一品が「作品」とも呼べるほどの優れたラーメンを作り出すという関わり方以外に、他のアプローチができないかと考えた際、
「芸術の変遷」との比較から、「個性によって傑作を作るクリエイター」ではなく、”味噌ラーメン”や”豚骨ラーメン”といった「万人が共有する形式のイノベイター」を目指したいと思うようになった。

久部緑郎・河合単石神秀幸『らーめん再遊記 2』(第13話)
個人の才覚だけでは到達できないところを目指す芹沢

「形式」が持つ力は大きく分けて2つある。

一つ目は、あまり深く考えずとも、その形式に則ることを意識しているだけで、多くの人間にそれなり以上に受けいれられるものを作ることができる点だ。
豚骨ラーメン店にもピンキリあるだろうが、それでも素人が完全にゼロから考えた創作ラーメンよりはヒット率は高い。

二つ目は、一つ目を補足するものでもあるが、「なぜ多くの人間に受け入れられやすいか」の理由となる力だ。
それは、多くの人が「今日はラーメン、その中でも豚骨ラーメンが食べたい」と思ったときに、人々の頭の中に浮かぶ豚骨ラーメンの「あの感じ」を形式が持っているからだ。
そして、その「あの感じ」は、その形式「だけ」が提供することができる

芹沢はそうした「醤油、味噌、塩、トンコツを凌ぐ形式」を生み出したいと、チェーン店でアルバイトをしたりといった突飛な試行錯誤を続けていくことになるのだが、現在も連載中なので気になる人は読んでみて欲しい。

ラーメン漫画から話が始まったので例えがイマーシブシアターとはだいぶ関係ない方向に行っているが、音楽でいうところの「ジャンル」のようなものを考えると観劇との類似も多いかもしれない。
例えば、クラシックミュージックとジャズを取り上げた時、人によって好き嫌いや向き不向きはあろうが、少なくともそれらに優劣があると考える人はほとんどいないはずだし、僕もそんなものは無いと思っている。
しかし、一方で、その二つを聴いた時に、感じることや感動した時に揺り動かされる場所が違うことも、多くの人にとって同意されることではないだろうか。
少なくとも僕は、感動する2つの音楽を聴いた際の身体的な反応に明らかに差異がある。
それは、繰り返しになるが、どちらが良い悪いではなく、どちらかのジャンルでだけ強く反応するものがそれぞれにあるということだ。

イノベイターが持つ力

ego:pression がやっているイマーシブシアターは、そうした、これまでになかった新しい形式・ジャンルなのではないか、というのが今の僕の考えだ。
もしかすると僕がまだ知らないだけで、イマーシブシアター生誕の地であるロンドンでは ego:pression がやっていることと同じ形式が以前からあるのかもしれないし、仮にそうでなかったとしても演出家に聞けば「自分が好きなAとBを組み合わせただけで新しい要素はない」と答えるかもしれない。
ただ、これまで作られてきた3作が全て素晴らしい作品である、という事実が、彼女達が新しい形式を作った(あるいは「発見した」と言っても良いかもしれない)のではないかと思えるのだ。

どんなものでもいいので新しいジャンルが生まれた時を思い浮かべて欲しい。
結局そのジャンルで一番上手くそれを作ることができるのは、そのジャンルが生まれた時の作品を作った人達ではないだろうか。
ここでいう「上手く作る」というのは、一番の傑作という意味ではなく、そのジャンルが持つ力をいつも毎回最大限発揮してくれる、という意味だ。

例えば、ビデオゲームにおけるアクションアドベンチャーゲームというジャンルでは、『ゼルダの伝説』という傑作シリーズが存在するが、シリーズの作品が毎回多くのユーザーに愛されているのは、作っているクリエイターがこのジャンルを発見した力が大きいと思っている。
もちろん、宮本茂をはじめとした天才達がいるから毎回面白いのだ、という意見は全く否定しない。
だが彼らも『ゼルダの伝説』で何もフォーマットを見つけることができなかったならば、優れた続編を作ることも難しかったはずだ。
知らない人にはチンプンカンプンな説明だろうが、Webサービスを作る際に DHH より上手く Ruby on Rails を使いこなせる、と自信を持って言える人は少ないだろう。

なぜ最初のクリエイターが一番上手く扱えるか、それはおそらく、意識的にであれ無意識にであれ、彼らが一番その形式の「本質と哲学」を理解しているからだと思う。
その形式が生む「あの感じ」、その形式「だけが持つ力」が、どこから生まれてくるかを一番よく知っているのが彼らなのだ

ego:pression イマーシブシアターの「あの感じ」

僕は作り手ではないので、イマーシブシアターがどういう形式で作られれば力を発揮するかは説明できない。
その代わりに、僕がこれまでの ego:pression 3作で受けてきた、そこ以外ではなかなか感じられない「あの感じ」の説明をしようと思う。

大きな物語と小さな物語

一緒に作品を観た友人が「大きな物語と小さな物語が描かれているんだね」と言っていた。
これは僕にとっても非常に的を射たと思える感想で、思わず大きく頷いてしまった。
大きな物語」というのは、その空間で登場人物達全員によって紡がれるストーリーであり、
「小さな物語」は、一人一人の個人としてのストーリーのことだ。

小説や映画では小さな物語を持った登場人物を必ず全員視ることになるが、このイマーシブシアターでは全てを視ることは出来ず、観客がどれかを「能動的に選び取る」ため、より視ることに意識的になる。
その結果、手で触れられる距離にいる登場人物達の小さな物語に心に触れられながら、それらが繋ぎ合わさって語られる大きな物語に感動する。

ただ僕はこの友人の表現に首肯すると同時に、さらに付け加えることがあった。
彼はおそらく小さな物語を、フィクションたる劇中の登場人物の物語のことだとみていたと思うが、ego:pression のイマーシブシアターには、フィクションの世界の登場人物だけでなく、それを演じる実世界の演者(ダンサー)個人も同時に確かに存在している。
だから、物語はフィクションであると共にリアルでもある
普通、非常に良く出来た作品でない限り、フィクションの世界に取り込まれる体験をすることは難しいが、
このイマーシブシアターでは、距離の力とリアルのダンサーへの共感によって「その人物」へと惹きつけられた後、その人物の「リアルとフィクションの曖昧さ」によって容易くフィクションの側の物語に連れていかれる
おそらくそれは、

  • 各登場人物を演じる演者が常に一人で、マルチキャストのような代役が存在ない
  • セリフの代わりに表現される踊りの振り付けを、演じるダンサー本人が行なっている

という制作手法も大きな力となっていることは間違いないだろう。

そして、ひとたび心がフィクションの世界に連れて行かれれば、そこでは大きな物語を「目撃する」のではなく「体験する」ことになる。
この「目撃」と「体験」の差は非常に大きい

二つの「繋がる」感覚

上で書いたことを僕なりの別の言葉で言い換えると、ego:pression のイマーシブシアターではいつも二つの「繋がる」体験をする。

一つ目は、時間や空間をまたぎ、自分が視ている人と物と舞台が繋がる感覚だ。
舞台に散りばめられた様々な物品・道具・装置などの言語・非言語を問わない多くの情報と、その場所そのものの雰囲気、
そして登場人物達が陰に陽に発するコトバを自ら選択して視ていく中で、
それらが一つに繋ぎ合わさって「そういうことなんだ」と、意味を掴みとる感覚。

二つ目は「この人に触れたい」という感覚だ。
目の前で踊っている人間、それがフィクションの中の人物のことなのか、実世界の人物なのかすらもはや曖昧で、
悲しさや苦しみ、困難に立ち向かう意志、それを乗り越えた喜び、なんでもない小さな幸せ、
そういったものを、どうにかしたい、分かち合いたい、そして「僕もここにいるよ」と伝えたい、そういったいくつもの複雑な感情が混ざり合った末に、
目の前の人間に手を差し伸べたくなる瞬間がある。
その感覚が、何よりも好きだ。

補足

今回の記事では ego:pression の演出のみに言及するような形になってしまったが、新しい音楽ジャンルを築いたミュージシャンにバンドメンバー達が必要だったのと同様、演出家がこの境地に達することができたのは、彼女の考えを形にするダンサーが共にいたからこそだと思う。
そして何より、「豚骨ラーメンという概念」を食べることは誰にもできないのと同じように、僕たちが体験し味わうことができるのは、リアルの世界に存在するダンサーや舞台を作るスタッフ達の力によって作られた「作品」だけであり、その作品のクリエイターたる彼らへのリスペクトも常に同じだけ心の中にあることを記載しておく。

また、繰り返しになるが、今回の記事では Sleep No More を始め ego:pression 以外の作品やジャンルも挙げたが、
それによって言及した作品や言及しなかった作品と比べて「どちらがより優れている」ということを言いたいわけではない
そもそも優劣を語るのはナンセンスだと思っているからだ。
例えば、漫画とアニメを並べて、
「漫画なんて、白黒だし、絵は動かないし、音楽すらなくて、リアルな人間が演じた声が入っているアニメに比べたら、劣った表現方法だよ」
という主張を聞いたら、多くの人が首を傾げるだろう。

さらに、仮に ego:pression のイマーシブシアターが真に新しいものだったとしても、全ての人にとって価値がある、とも言わない
僕はミュージカルも大好きだが、「ミュージカルは突然歌い出すのが受けつけない」と全く興味がない人もいるように、イマーシブシアターから何も感じなかったり、場合によっては「嫌いだ」という人もいくらでもいるだろう。
そして、そうした人々を非難するつもりはないし、「これの良さが分からないなんて」などと馬鹿にするつもりも一切ない。

ただ、最後の晩餐ならぬ最後の観劇として、
来週隕石が降ってきて地球が滅亡するけど、今週末NYに行ってミュージカルや Sleep No More を観るか、それとも ego:pression のイマーシブシアターを観るかの二択だったらどうする?と聞かれたなら、
今の僕は迷いなく後者を選ぶ、というだけだ。
その理由は、彼女達に触れられることで動く感情が好きで、それが今のところ、彼女達の作品でだけ味わうことができるからだ。

最後に

あれこれ長く述べてきたが、実は正直なところ、「観る側」が形式を意識することにはメリットが少なく、デメリットが多くあるのでやめたほうがいい。
頭の中でひたすら「豚骨ラーメン、豚骨ラーメン」と唱えながらラーメンを食べていても、それが理想的な豚骨ラーメンであった時にはディテールを味わうための助けになるかもしれないが、
トンコツではない感動的な醤油ラーメンであったり、ラーメンの枠から飛び出るような新しい麺料理であったりしたときに、自分の期待と違うことに意識をもっていかれて、せっかくの貴重な体験を失うことになる。芹沢の言葉を借りるなら「情報を食うな、ラーメンを食え」だ。

そして、ほとんどの人にとっては、ego:pression のイマーシブシアターは「ラーメンの枠から飛び出た新しい麺料理」に近しい、全く経験したことのない未知の体験を与えてくれるもののはずだ。
だから、ここまで非常に長い文章を読んでもらっておいて大変恐縮だが、読んだことはきれいさっぱり忘れて、
来週から上演される新作の!チケットを買い、ただ心をオープンにして、新しい体験を目一杯楽しんで欲しい。

https://www.egopression.com/latestinformation

チケット購入先

寛容と無関心、他者、許し、フェルナンド・アラムブル『祖国』の雑感

自分とは異なる意見や価値観を単純に拒絶しないことを寛容と表現するが、これと似た振る舞いに無関心がある。関心が無ければ拒絶もしない、という寸法だ。
誰の説明だったかは忘れたが、寛容と無関心の違いは何か、という問いへの回答の一つに、「自らへの不寛容を許容するかどうかである」というものがあった。
すなわち、寛容さは寛容への不寛容を許容せず、無関心は自分自身の無関心さへの不寛容を拒絶しない

具体的な例を出すと、自分自身が異性愛者であろうと同性愛者であろうとそれ以外であろうと、人々の性的指向に対して「寛容」である人間は同性愛に対する攻撃を許容しないが、問題に対して「無関心」な者はそのような攻撃自体も一つの意見だと見過ごす。

この説について僕は、少し寛容さの価値に重きを置いた説明だな、と思ったのだが、それ以上に、これは単に挙動の説明であって、なぜそうした違いが生まれるのかという説明がないな、と思っていた。

そんな中最近、これは「問題に対して」寛容/無関心であるということよりも、もっと根っこのところで、その問題の「原因に対して」どう言う認識でいるのかが違っているのではないかと思うようになった。

受け入れがたいものの原因による違い

現代の平和な日本において、家族や愛する人といった、大切な人間の命を「誰か」に奪われる、ということを経験する人は稀だ。
だが、ヒトは必ず死ぬのだから「何か」には奪われる。
その理由で一番多いものは病だろうし、事故だったり、老衰だったり色々とあるだろう。ただその死は基本的に、意思を持った存在によって引き起こされることではなく、いわば自然によって命が奪われる。

どちらであろうとも、失われたことによる悲しみの大きさは変わらないだろう。
だが、それ以外の感情はどうだろうか。
怒りや憎しみ、納得できない、許せないといった気持ちは、明らかに意思を持った存在、具体的には自分以外の人間によって引き起こされた場合に強く感じるだろう。
対して、意思を持っていないものによって被る不利益に怒りを覚えるケースは少ない。
病気で家族を亡くしたことがあるが、僕自身は少なくともそれで怒りを覚えたりはしなかったし、おそらくそれが自然災害であっても同じではないかと思う。
なぜ、不幸の原因が意思を持った存在なのかどうかによって、受けるショックが違うのだろうか

他者をどう見做すかによる物事の捉え方の違い

話が戻るが、僕は自分のことを比較的受け入れられる物事が広い方だと思っているが、その自身の物事に対するスタンスはどちらかというと「無関心」にあたる方だと思っている。
ただ、何に関心を持って「いない」かというと、それはその問題、すなわち自分と異なる意見・価値観をどうでもいいと思っているというよりは、その問題を提示する人の意思の存在をどうでもいいと思っている方が近い。

例えば、自分と異なる宗教観を持った人がどのように振る舞おうと、その人物を意思を持った人間と看做さず、チンパンジーのような人間以外の動物、あるいはビデオゲームにおけるNPCがそう振る舞ったのと同じように受け取れば、彼らに対して拒絶感は生まれず、その振る舞いを自然現象として捉えることができる

仏教でいう悟りはこれとは違うだろうが、少なくとも物事の受け止め方としては優秀なストレスコントロール方法であり、何かにイライラさせられることも減るし、若い頃にこの方法を学習していればもっと楽に生きて来られたのに、と思っていた。

特にこのことを意識するようになった際は、外部から刺激を受けてそれに直接的に反応するだけのいわば「動物的」な振る舞いを脱して、より「人間的」な高尚な生き方ができるようになったのだ、と無邪気に喜んでいた頃もあった。

ただ、人と話をしたり作品に触れたりする中で、このような「自分以外の存在を認めないことにより、自らに降りかかる物事を評価から切り離し、ただそのままの事象として観察する」ことによって、何も感じずにいるという振る舞いは、確かに「動物」ではないかもしれないが、「人間」というよりはむしろ「植物」であって、ちっとも高尚ではないのでは?と思うようになった。

『祖国』に見た人間らしさ

今回この記事を書くきっかけになったものが、フェルナンド・アラムブルの『祖国』だ。

小松原織香のこの記事で興味を持って手に取った。
(余談だがこの記事から始まる一連の3記事はとても面白かった。修復的正義についての著作も読もうと思う。)

四半世紀前のバスクのとある村を舞台に、バスク独立派組織のETAによって殺されたある男と、その妻と子供達、その男の親友家族でありながらも殺した側のETAの人間を息子に持つ夫婦と姉弟達、2つ家族の9人それぞれの視点を描いた作品だ。
話自体はフィクションだが、バスク独立を謳うETAは実在の組織であり、実際に数百人の人間がそのテロの犠牲となっており、作者のアラムブルはバスクで生まれた人物だ。
訳書は上下巻に分かれており、上巻はかなりゆっくり読んでいたのだが、下巻に入ってから引き込まれて一気に読んでしまった。
登場人物9人は皆全く違う人間であり、当然自分とも全く異なる価値観を持った人間だが、それぞれの視点で語られる文章を読みながらその人物達のことを「知る」につれ、全員に深い親近感のような感情をいだいていく。

何かの掛け違いで死んでいく男。
夫が殺された後何十年も墓に通う妻。
母を守るという自らの約束を思う息子。
父の死から逃げようとする娘。
親友と言葉を交わすことができなくなった男。
息子の投獄に怒りを持ち続ける母。
体の自由を失いながらもはっきりと前に進む姉。
引き返せたかもしれないテロリスト。
家族に認められることを望む息子。

ego:pression のイマーシブシアターを繰り返し観た時のように、登場人物全員の心の動きが、小説を読んでいる自分の心に触れてくる作品だった。

劇中、夫を殺された妻ビジョリは、ETAのメンバーであり殺害に関与して投獄されている、亡き夫の親友の息子ホシェマリに手紙を書く。

憎しみはない。唯一の望みは、あなたから謝罪をもらい、あなたを許し、心の平安を得ること。

いくつかの疑問がある。

すでに憎しみもなく、自ら許そうと思っている状態は、「すでに許している」ことと何が違うのだろうか
なぜ、ビジョリはホシェマリに対して謝罪を求めたのだろうか。
引き金を引いた犯人かどうかすら脇に置き、そもそも実質的な殺害者は指示をしたETAの幹部であると言ってもいいはずだが、なぜ、殺害の真実に対する求めではなく、ホシェマリに謝罪を?
もし僕がビジョリと同じ立場だったら、心の平安を得るためにどうしただろうか。
大切な人が熊に殺されたと思う?
そうすれば、悲しみ以外は感じずに平穏でいられるだろうか。

もし自分がホシェマリだったらどうだろうか。
誰かを殺し、誰かを傷付けてしまったとしたら?
その時も、その「人」が「ヒト」ではない、と思い込むだろうか。
死んだ人間も、傷ついた人間も、ゲーム序盤で同じセリフを繰り返すだけのNPCだと見做せば、苦痛を感じずに済むだろうか。

他者への尊重と自己の肯定

この作品では、明らかに他者への尊重が描かれていた。
ビジョリは自分のためだけでなく、「ホシェマリ自身のために」謝罪が必要だと思っていた。
ホシェマリは謝罪によって自分が救われる可能性を感じていただろうが、それでも「ビジョリのために」謝罪が必要だと思っていた。
一見奇妙だが、相手の存在を認め、尊重することによってしか、自分自身を肯定することができないと知っていたのではないだろうか。
その象徴が、美しく、悲しく、抱きしめたくなるような気持ちにさせる何かが描かれたラストシーンだと思う。

そう考えると、僕がやろうとしていた自己コントロールは、自分自身に何の変化ももたらさず、木石のごとき生とも言えない時を送るだけのつまらないものだ。
例え苦痛が増えるのだとしても、自分自身の意思の存在を信じるために、他者を尊重していくしかない。