変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

物語は何を発明してきたのか――イマーシブシアターがくれるもの

漫画、小説、ゲーム、映画。
"物語"を楽しむ表現形式には様々なものがあるが、どれが一番のお気に入りだろう?
僕は毎週末映画館に通っているので、費やしている時間は映画が一番だと思うが、「一番好きなもの」を聞かれれば別のジャンルを挙げる。

文学、あるいは物語における「発明」

アンガス・フレッチャーの『文學の実効(Wonderworks)』という本がある。
文学を「何を伝えようとしているか、どんな意図があるのか」という意味や主張からではなく、それを読むことで、人間の心や身体に何が起こるのかという視点から読み直す本だ。

物語は、勇気を生んだり、悲しみを癒してくれたり、他人への共感を生んだりする。フレッチャーは、古今の作品をたどりながら、そうした作用を可能にした物語上の「発明」を探していく。
この見方が僕はとても好きだ。

そして本を読んでいて、少し別のことを考えた。
小説、漫画、映画、アニメ、舞台、ミュージカル、ゲーム。
同じ「物語」を扱っていても、それぞれの表現形式には、それぞれが発明した人間の心への触れ方があるのではないか。
もちろん、ある形式でしか生み出せない感情がある、という話ではない。小説でも映画でも舞台でも、人を泣かせたり、勇気づけたり、誰かを好きにさせたりできる。
違うのは、そのために使える道具だ。

作者が何を決め、何を受け手に委ねるのか。
受け手の目や耳や身体に、どこまで直接働きかけるのか。
そう考えると、それぞれの形式が長い時間をかけて発明してきたものが見えてくる。

まずは、いちばん古典的なところから考えてみる。

小説: 他人の心を、自分の中で動かす

小説には絵も音もない。
登場人物の顔も、部屋の明るさも、声の震え方も、文章に書かれていないかぎり存在しない。
それでも僕たちは小説を読むとき、そこに人を見る。

短い抱擁だった。ふたりは一瞬だけ目を見つめあい、そして離れていった。

フェルナンド・アラムブル『祖国』 木村裕美 訳

実際には何の映像も与えられていないのに、僕たちは彼女の表情を想像し、二人の関係を推測し、何を感じているのかまで考え始める。
小説は、完成した世界を読者の頭の中に送り込んでいるわけではない。
その世界を作る仕事のかなりの部分を、読み手にやらせている。
その中でもとりわけ大きなものは、人の心だ。
小説を読んでいる間、僕たちは何度も、この人はなぜこんなことをしたのか、本当は何を望んでいるのか、本人すら気づいていない気持ちは何なのか、と考える。
他人の心についての仮説を、自分の頭の中で何度も作っては更新する。

小説が発明したものを一つ選ぶなら、
「他人の心を、自分の心の中でシミュレーションする技術」
と呼びたい。

漫画: 欠けたものを、自分でつなぐ

小説と違い、漫画には絵がある。
けれどその絵は完全には連続していない。

あるコマで男が手を振り上げ、次のコマではその男が吹き飛んでいる。殴られた瞬間の絵はどこにも描かれていない。
それでも僕たちはその間に何が起きたかを自然に補うことができるし、実際にそれをする。

冨樫義博『HUNTER×HUNTER 2巻』

漫画では、こうした「コマとコマの間」を繋ぐ作業を、読者自身が行っている。 しかも映画とは違い、読む速度も自分でコントロールできるから、数秒で読み飛ばすこともあれば、一枚の絵の前でじっくりと立ち止まることもできるし、前に戻ることすら可能だ。

すなわち、漫画は物語の時間を完成品としては渡さない。
出来事の一部を意図的に欠落させて、その欠落を読者が自分の心の中で完成させている。

漫画が発明したものを選ぶなら、
「欠落を、参加に変える技術」
と呼びたい。

映画: 注意を設計する

映画は作者たる監督が非常に強い力を持った表現形式だ。

観客は、カメラに映っているものしか見ることができない。
誰の顔を見るか、いつその顔から離れるか、どの角度で近づくか。何を先に見せ、何を最後まで隠すのか。
こうしたことをすべて作者が決められ、観客がそれを変えることはできない。

映画を観ているとき、僕たちは自由に世界を眺めているようでいて、実際にはかなり精密に視線を導かれている。
さらに編集と音楽が加われば、視線だけではなく時間まで操作できる。

シドニー・ルメット監督『十二人の怒れる男』(1957)

「ここで不安を感じて欲しい」「この瞬間まで知らないでいて欲しい」「ここは混乱して欲しい」
作者はこうしたことを、多くの観客にほぼ同時に起こすことができる。

だから映画の発明とは、単に「他人の視点を借りる」ことではない。
「他人の注意を、一本の時間軸に沿って制御する技術」
それによって映画は、驚きやサスペンス、恐怖や期待を、とても高い精度で組み立てられるようになった。

アニメ: 心の中を世界の法則にする

アニメにも映画と同様、カメラと編集があるが、決定的に違うところが一つある。
それは、アニメは最初から、現実の物理法則に従う必要がない、ということだ。

悲しければ世界から色が消えてもいいし、怒りで身体が巨大化してもいい。
恋をして身体が浮き上がってもいいし、恥ずかしくて人間が小さくなってしまってもいい。

ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソン監督『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)
色付く瞬間

もちろん、実写でも特殊効果で同じようなことはできるが、そもそもアニメは「現実の世界」が基準ではない。線も色も動きも、すべて最初から作られたものだ。だから、普通なら比喩としてしか表現できない心の状態を、その世界の現実として存在させることができる。

アニメの発明を一つ選ぶなら、
「心の中を、世界の物理法則にする技術」
なのだと思う。

舞台芝居: 虚構に本物の体を置く

舞台には、映画にはない奇妙なものがある。「目の前にいる人間が、本当にそこにいる」ということだ。

ピーター・モーガン『オーディエンス』(ナショナル・シアター・ライブ)

演じられているキャラクターはフィクション、すなわち架空の人物だ。起きている出来事も作り物だ。
けれど、その俳優が息をしていることは本物だし、その声が今この場の空気を震わせていることも本当だ。
こちらを見ることも出来るし、失敗することも出来る。

つまり生の舞台では、出来事は虚構なのに、その出来事を演じている身体だけは現実に存在している、という不思議な二重性がある。
映画の登場人物が怒鳴っても、僕たちが危険にさらされることはない。
舞台でももちろんそれは同じはずなのだが、数メートル先の人間が突然大声を出せば、現実の身体はそれを現実の出来事として受け取る。

舞台芝居が発明した一つの技術とは、
「虚構を、社会的な現実としてその場に発生させる技術」
と呼べるかもしれない。

ダンス: 意味を決めずに感情を渡す

バレエのようなダンス舞台では、言葉がほとんどなくなる。その結果、観客が受け取るものから一部の"正解"が消える。

例えば一人の踊り手が、もう一人に近づく。手を伸ばし、触れる直前で止まる。相手は離れ、そしてまた戻ってくる。
そこには明らかに何かがあると感じられる。
愛かもしれない。あるいは恐れや未練かもしれない。赦そうとしているのかもしれない。
僕たちはその身体の動きから、かなり多くの感情を受け取る。

ウクライナ国立バレエ『白鳥の湖』

けれど、それが「何を意味しているのか」は最後まで確定しない。
「私はあなたを愛している」と言った瞬間にたくさんの可能性が消えるように、言葉には意味を決める力があった。
ダンスではそれを使わない。だからこそ「感情の解像度は高いのに、意味の解像度は低い」という状態を作ることができる。
これは欠点ではなく、むしろ大きな発明だ。

それを一言でいうならば、
「意味を確定させないまま、感情だけを精密に渡す技術」
なのだと思う。

人形劇: 物に心を生む

人形劇にはさらに奇妙なことが起きる。

そこにいるのは人間ですらない、木や布や糸でできた物だ。僕たちはそのことをはっきりと知っている。
それでも、人形が少し首を傾げただけで、「この人は困っている」と思う。誰かから顔をそむければ、「怒っている」と思う。 動かしているのが人間だと分かっていても、その人間ではなく、人形そのものに心があるように感じる。

人間はどうやら、心を受け取るだけではなく、わずかな手がかりから積極的に他人の心を作り出してしまうらしい。
人形劇は、そのことをとても露骨に見せてくれる。ただの物体だったものが、ほんの少し動いた瞬間に、「誰か」になる。

だから人形劇の発明を一つ選ぶなら、
「物から、人格を発生させる技術」
と呼びたい。

ゲーム: 「見た」が「自分がやった」に変わる

そしてゲームでは、これまでとは別の大きな変化が起きる。観客が、物語に手を出すことができるようになったのだ。

映画で誰かが重大な選択をしても、それはその人物の選択だった。
僕たちはその結果に驚いたり、悲しんだりすることはできる。

けれどゲームでは、「こちらを選んだのは自分だ」という事実が残る。
結果として誰かが傷つけば、「彼がそうした」ではなく、「自分がそうさせた」に近づく。
そこで生まれるのは、これまでのような単なる共感ではない。責任や誇り、後悔や罪悪感を感じ、そして自分の判断を正当化したくなる。
物語の中の出来事が、少しだけ自分の行為になる。

SQUARE ENIX『タクティクスオウガ リボーン』
大きな選択肢だけでなく、一つ一つの小さな「行動」が同じ効果を生む

もちろん、すべてのゲームが物語を分岐させるわけではない。
それでも、自分で歩き、自分で戦い、自分で扉を開けるというだけで、観客として「眺めている」こととは違う、ユニークな感覚が生まれる。

ゲームが発明したものを一つ選ぶなら、
「物語への共感を、物語への責任に変える技術」
なのだと思う。

イマーシブシアター: 自分だけの目撃を作る

最後は、冒頭で述べた僕が一番好きな形式「イマーシブシアター」だ。

初めて聞く人もいるだろうし、一言で「イマーシブシアター」とくくっても様々な形があるため、知っていても想像と違う人もいるだろう。
簡単に捕捉すると、「セリフ無しに、観客が自由に回遊しながら観劇する」スタイルのダンスをベースにした芝居のことだ。
そしてその中でも特に、僕が大好きな団体、ego:pression が多く採用しているものに魅せられている。

www.egopression.com

11月~12月に新作が公演されるので、ぜひ一度観て欲しい。

彼らが作るイマーシブシアターは、ここまで見てきた表現形式のいくつかと重なる部分がある。

舞台芝居は、物語をいま・ここで起きている出来事にした。
ダンスは、その出来事が何を意味するのかを言葉で確定せず、解釈を観客に残した。
そしてイマーシブシアターは、その出来事を見る場所まで観客に委ねる。

通常の舞台なら、観客は客席に座っている。物語は目の前で起きるけれど、観客がいる場所と、物語が起きている場所は見えない壁で分かたれている。
イマーシブシアターでは、その境界がなくなる。
観客は部屋を歩き、人についていき、ときには目の前を誰かが走り抜ける。右へ行くこともできるし、左へ行くこともできる。一人の人物についていけば、そのあいだ別の場所で起きた出来事を見ることはできない。

ここで観客に渡されるのは、ゲームのような「因果」とは異なる。
多くのイマーシブシアターでは、観客がどちらへ行っても、世界で起きる出来事そのものは変わらない。
変わるのは、自分が何を知ることになるかだ。
誰の孤独を目撃したのか。他の誰も見ていないあの場所で、誰と誰が手を取り合ったのか。あの人物がなぜ最後に泣いていたのか。
同じ作品を見たはずなのに、それを知っている観客もいれば、知らない観客もいて、持ち帰る物語がみんな違う。
イマーシブシアターが観客に渡したものを一つ選ぶなら、それは「目撃」なのだと思う。

「何が起きたか」ではなく、「私は何を見たか」が作品の一部になる。
言葉がないため、自分が目撃した出来事の意味まで完全には決まらない。

二人が長いあいだ見つめ合っていた。一人が手を伸ばし、相手はその手を取らなかった。二人は別々の方向へ歩いていった。
そこで何が起きていたのか。
恋だったのかもしれない。別れだったのかもしれない。あるいは別の時間に生きていたのかもしれない。

観客はまず何を見るかを選び、そして次に、見たものが「何だと思う」かを選ぶ。
この二重の余白が、イマーシブシアターのとても特殊なところだと思う。

映画では、作者が観客の注意をかなり精密に設計できる。
ゲームでは、観客が物語の因果に参加できる。
舞台では、物語が観客と同じ現在に出来事として立ち現れる。
ダンスでは、感情は伝わっても、その意味は確定しない。

イマーシブシアターは、それらとは少し違っている。
出来事は作者が作るが、どの出来事と出会うかは観客が決める。
そしてその出来事が自分にとって何だったかも、観客が決める。

だから、作品を見終えたあとに残るものも少し違う。
映画や舞台なら、「あの場面がよかった」と話せるけれど、イマーシブシアターでは、「あのとき、あの人が一人で踊っていたのが忘れられない」と言ったとき、「そんな場面があったの?」と返されることがある。
その瞬間、自分が持ち帰ったものが、作品に最初から完成された形で置かれていたわけではなかったことに気づく。自分がその場所へ行き、その人についていき、その距離から見たからこそ生まれたものだったと知る。

それは少し、記憶に似ているかもしれない。僕たちの現実の記憶も、世界で起きたことすべてを保存できているわけではない。自分がその時どこにいて、何を見て、何を見落とし、その出来事をどう理解したかによって作られている。
イマーシブシアターも、それに近いものを作る。
完成された物語を観客の頭へ渡すのではなく、観客自身に、ひとつの「目撃の記憶」を作らせる。

僕がこの表現形式を好きな理由の一つは、たぶんそこなのだと思う。
作品は間違いなく作者によって作られている。ダンサーの動きも、音楽も、空間も、起きる出来事も、綿密に設計されたものだ。
けれど最後のところだけは完成させない。
誰を見るのか、何を見逃すのか、そこに何を感じるのか。
それが観客に渡されている。

小説は「想像」を読者に渡した。

漫画は「補完」を読者に渡した。

映画は「注意」を作者が引き受けた。

アニメは「世界の法則」まで作者が描いた。

舞台は、物語を「出来事」としてその場に立ち上げた。

ダンスは「意味」を観客に残した。

人形劇は「人格」を観客に作らせた。

ゲームは「因果」を観客に渡した。

イマーシブシアターは、「何を目撃し、それを何だと思うか」が観客に渡されている。
それもまた、人間が物語を語る長い歴史の中で生まれた、一つの発明なのだと思う。

AIが人間の能力を拡張するとき「個人の自由」はどこまで残るのか、あるいは「大いなる力に伴う責任」について

映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は相変わらず最高のスパイダーマンだったが、今回はその感想記事ではない。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を知っているだろうか。今作で直接的に語られるわけではないが、スパイダーマンシリーズを通して繰り返されてきた有名な格言だ。

紀元前からある格言なので、「スパイダーマンの名言」ではない

スパイダーマンに限らず、もし人々が明日から急に「大いなる力」を得たとしたら、そこには何かの責任が生まれるのだろうか。
「そもそも”特別な”力だからこそ責任が伴うのであって、その力を全員が持っているなら何も変わらないでしょ」と思うかもしれない。
だが、自分だけが持っている力ではないからこそ生まれる責任、というものもあるように思う。この記事はそういう話だ。

拡張される能力

近い将来、人々がウェアラブルデバイスとAIを常時身につけて生活することは当たり前になると思っている。
頭につけたカメラやマイクをAIと共有し、目の前にあるものを説明してもらう。誰が何を話しているかを翻訳してもらう。以前会った人が誰だったかを思い出すのを助けてもらう。
特に視覚や聴覚、認知機能に障害を持つ人にとって、その価値は大きいはずだ。

というのも、聴覚を持つ人であれば声だけで知人を聞き分けられるし、相貌失認のない人であれば顔を見て相手を思い出せるが、それができない人はそもそもその手段自体を持っていないからだ。
コンタクトレンズや眼鏡が近視を「障害」から「ちょっとした特徴」に変えたように、AIは様々な障害をハンデではなくすことができる。

だが、AIを搭載したカメラやマイクを持ち歩くことに対しては懸念の声もある。何が問題なのだろうか?

能力の連続性

人間の能力には大きな個人差がある。
僕には全く備わっていない能力だが、一度会った人の顔を何年も忘れない人もいるし、数年前の会話を驚くほど正確に記憶している人もいる。
そのため、AIが「この人とは半年前に一度会っています」と教えてくれることを、「人間を超えた能力だから禁止すべきだ」と整理するのは難しい。それくらいのことをAIなしで普通にできる人が、現実にいるからだ。

能力は「正常」と「障害」に二分されているわけではなく、連続的なものだ。
だとすれば、「この能力以下の人にはAI補助を認めるが、それ以上の人には認めない」という線も引きにくい。貴方の記憶力が平均より上か下かを誰かが測定し、その結果によって使える道具が変わる社会は、あまり想像したくない。

ただ、それでも今のところ、自分が過去に知覚・経験したことをAIに補助してもらうことと、外部のデータベースから新しい個人情報を取得することの間には、違いがあるように思う。
以前会った人をAIが思い出させてくれることと、知らない人を見た瞬間にWebを検索して勤務先や病歴まで表示することは、同じ「人物識別」でもかなり違う。
そしてこれは、先ほど「引きにくい」と述べた線とは別物だ。前者は能力の大小によって人を分ける線だが、後者は能力の高低とは関係なく、その情報がもともと本人の関与のもとで手渡されたものなのか、本人が知らないうちに集められたものなのかを分ける線だからだ。

「撮影」について

スマートグラスに関して、「街を歩くだけで常に撮影される」という懸念がよく語られる。
もちろん、その映像や音声がメーカーのサーバーへ送られ、保存され、広告やプロファイリングといった別の目的に利用されるのであれば、それは問題だと思う。
しかし、AIが目の前の状況を理解するために一瞬映像を処理することと、そのデータを巨大テック企業が取得して再利用することは、分けて考える必要がある。
前者まで禁止してしまえば、視覚補助を含むウェアラブルAIの主要な機能はそもそも成立しないからだ。

だから将来重要になるのは、「撮影しているか」ではなく、そのデータについて、

誰がアクセスできるのか。
どこで処理されるのか。
どれだけ保持されるのか。
何の目的に利用されるのか。

という区別のはずだ。

合意なき選別

そしてこれらの問いは、結局のところ一つの問いに集約されると思っている。その情報が、本人の関与しないところで本人を選別するために使われるのか、ということだ。
以前の記事でも触れたことがあるが、これは「個人情報保護」の原則そのものだ。

勘違いされることも多いが、政府が個人情報保護法を制定するのは、人々の「知られたくない秘密を守る」ため、つまり狭い意味でのプライバシー保護のためではない。
力を持つ存在が、個人に関する情報、それは秘密だけでなく「知られてもいい」ものも含んだ情報を使って、社会の合意なしにその人を選別することを防ぐことこそが、個人情報保護の目的だ。

例えば企業が、

「過去にあの病気になっているからこの人は採用しない」
「この地域の出身者は事故率が高いから保険料を上げる」

という判断を本人の関与しないところで行えるようになれば、社会は都合のよい選別で満たされ、不幸な人々が生まれてしまう。

ただ、もちろんすべての選別が禁止されるわけではない。
例えばパイロットに一定の医学的条件を求めることはあるが、その場合はどの条件が安全上必要かについて、法律や制度を通じた事前の社会的合意があるはずだ。かつては裸眼での視力規定があったが今は撤廃されているように、その合意自体も更新されていく。
問題なのは、選別する側が自分達だけで都合のよい基準を勝手に作り、それを実行することだ。

個人の自由

企業や行政による選別には強い制限がある一方で、個人が私生活で誰と付き合うかについては、非常に広い自由が認められている。
「こういう人とは結婚したくない」「こういう人とは友人になりたくない」という判断がどれほど不快なものであっても、国家が特定の相手との私的関係を強制することは基本的にできない。

ただ、この自由の背景には、一人の人間が他人に及ぼせる影響には限界がある、という暗黙の前提もあったのではないだろうか。
AIは、この前提を変える可能性がある。

AIを持った一個人が企業と同じくらい強い影響力を持つ、という意味ではない。ある一人の個人から差別されること自体は、AIがあってもなくても大きくは変わらない。
変わるのは、その選別が実際に行われる頻度だ。

個人的な偏見や嗜好を実行に移すには、情報不足や手間といった、自然な不完全性・コストがある。相手の属性を知らないこともあるし、調べれば分かるがわざわざ調べないこともある。
AIは、そのコストをほとんどゼロにできる。
一人ひとりが自分の選好をAIに伝え、出会う相手を自動的に照合するようになれば、個々の判断は「個人の自由」のままでも、その集合的な結果は大きく変わる。
つまり問題は、一人の差別が強力になることではない。これまで実行されずに終わっていた無数の小さな選別が、機械によって漏れなく実行されるようになることだ

そしてこのコストの低下は、「調べる手間」だけの話ではない。
「忘れられる権利」が謳われるようになって長いが、一度ネットに載った些細な罪や、「正しく知れば」多くの人は何とも思わないはずの事実は、消えずに残り続ける。
残り続ける情報と、漏れのない自動照合が組み合わさったとき、それは誰の目にも明らかな「タトゥー」として動作してしまう。
その結果、誰も社会全体を設計していないのに、特定の属性を持つ人が体系的に排除される、ということが起こりうる。

選別の回避のプロトコル

こうした世界では、個人間のプライバシーや情報利用について、人間が毎回同意するのは現実的ではない。街ですれ違う相手全員と条件を交渉していたら、一歩も進めないからだ。

何かいい案はあるだろうか、と考えていて一つ頭に浮かんだものが、エージェント間のハンドシェイクの仕組みだ。
あるユーザーのエージェントAIが、

「映像と音声を一時的に処理します」
「本人の過去の記憶とは照合します」
「外部の人物データベースとは照合しません」

というポリシーを送る。相手のAIは、本人が事前に設定した条件を返し、両者の条件からその場で許される処理を決める。
AIはもう十分賢いので、機械的な項目チェックではなく、エージェント同士が「交渉」し合う形の方がより望ましいと思う。

これは前節で述べた集合的な選別そのものを止める仕組みではないが、その入力を絞る仕組みにはなる。
どんな選別も、照合するための情報が手に入らなければ実行できないからだ。一方で人間は、一度「知ってしまった」ことを意図して忘れることはできない。
ここで何を渡すかを決められることが、個人の側に残された最も現実的な制御点なのではないかと思う。

AIを持っていない人については、社会共通のデフォルトポリシーを適用するしかない。
例えば、人間の日常的な知覚や記憶に近い処理には比較的広い自由を認める一方、企業が別の目的に利用可能な形での送信、永続的な人物データベース化、外部情報との結合、大規模な自動選別には強い制約を置く、といったあたりに当初は落ち着きそうだ。

人間「本来」の能力とは

AI時代には、「人間に本来できること」を基準にルールを作るのは難しくなる。
そもそも人間の能力には大きな個人差があり、AIによってその境界はさらに曖昧になるからだ。

本当に考えるべきなのは、人間の能力が拡張されていくことを前提に、それでも守るべき個人の自由とは何か、そしてどこからが社会的に制御すべき選別なのか、ということだと思う。
スマートグラスをめぐる「撮影してよいか」の議論は、その入口にすぎない。

そしてもっと根本的な問いは、AIによって一人の人間がこれまではありえなかったほど大きな認知能力を持つようになったとき、社会はその存在をどこまで従来と同じ「個人」として扱うべきなのか、というところにもあるかもしれない。
冒頭の話に戻れば、全員が「大いなる力」を持つ世界で生まれる責任とは、一人ひとりが自分の力を自制することではなく、自分の選好をどこまで機械に実行させるのか、そのデフォルトを社会としてどう決めるのか、という設計に参加することの方なのだと思う。

近況

ところで、最近また会社を始めた。友人と山に登っているときにそんな話になり、じゃあ、ということであっさり決まった。

www.tetos.co.jp

少なくとも僕にとっては、「会社を始める」ということは自分一人ではできなかったことだ。
それはAIが自分より賢くなった今でも変わらないことで、AIにできないことができる人間の力は凄いな、と実感した。
そういう意味で、Starley でのエルマさんにも、今回の tetos での服部さんにも、感謝しかない。

また何かのプロダクトを作ることになるが、自分だけが面白いと思うものではなく、他の大勢の人にとっても価値があると感じてもらえるものにしたいと思っている。
近いうちに出せると思うので、その時がきたら体験してみて欲しい。

紫栄庵で受け取った手紙――ego:pressionイマーシブシアター『p.s.アイラブユー』がくれた“世界を愛おしくする視線”

この連休、同じ物語を何度も追いかけていた。
ego:pression のイマーシブシアター『p.s.アイラブユー』——それは読まれるたび、観られるたび、別の形で “手紙” になる作品だった。

今年のGW、紫栄庵で出会った “手紙”

4月末から5月頭にかけての11日間。ダンスパフォーマンス団体 ego:pression によるイマーシブシアター公演があり、それを観てきた。

イマーシブシアターとは、「舞台と客席」の垣根を取り払い、観客が演者と同じ場所、手の届く距離から観劇することで、"没入型(イマーシブ)体験" を味わうことができる、比較的新しいスタイルのパフォーマンスだ。
ego:pression はダンスをメインとした団体で、セリフ無しに、音楽とダンスだけでストーリーを表現するイマーシブシアター作品を、定期的に公演している。
今作『p.s.アイラブユー』は、横浜の片倉にある紫栄庵という場所を舞台に、各回たった23人の観客の中、9名の演者達によって物語が紡がれる作品だった。

美しい草花の庭園、風情ある古民家、陶芸室。そんな場所で、亡き作家が恋人を想って書き上げた遺作、それを読む読書会の参加者として、この物語を見届けた。

それは確かに、作家から恋人へのラブレターであると同時に、ego:pression から観客への手紙でもあった。

ヤブカンゾウ

伝われという祈り、伝わるという信頼

全てを観終わって浮かんだことは「伝わるはずだと"信じて飛ぶ"」ということだった。

劇中劇として7人の登場人物達で再現される作家の遺作は、立ち止まったままの恋人へ宛てた、とても個人的なラブレターでもあった。
見ている観客は、作家の想いが恋人へ届いてほしい、という気持ちを抱きながら、同時に作家が、「自分の作品が最愛の人の心にきっと届くはずだ」という祈りにも近い信頼を持っていることを知る。
そしてさらに、「届くはずだ」という祈りは、劇の外側、現実の世界で演じている演者達自身の祈りでもあるのだ、ということに思い至る。

ego:pressionのイマーシブシアターでは、演者たちはほぼセリフなしに物語を編む。
言葉を捨てて身振りだけに賭ける行為は、観客が何を受け取るかを制御しにくい。
まして今回の作品は、観客が心に決めた人物を最初から最後まで意図して追いかけることができない作りになっており、それぞれの観客がどんな体験をするのか、普段にも増して制御しづらいものだった。
それでも彼らは、“届くはずだ”と信じ、何度も踊り、誘導し、ときに視線だけで物語を預けて去っていく。

僕の大好きな映画『スパイダーマン スパイダーバース』で印象に残っているシーンがある。 登場人物の「いつになったら自分が失敗しないと分かる?」という問いに対して、「そんな時は来ない、"It's a leap of faith"(信じて飛ぶしかない)」というセリフを返すシーンだ。

おそらく創作や表現をする人間はみな、"leap of faith" で作品を世に送り出しているのだろう。祈りと受け手への信頼が入り混じった「伝われ」という想いで。

作中の登場人物の姿に重なるのは、作品外で ego:pression が選んだ表現形態——観客が自由に視点を選べるイマーシブシアター。すべてを観られない不完全さ込みで、「届くはず」という一点に賭ける勇気、僕はそこに、この団体特有の眩しさを見る。

フィクションの中の登場人物が描くものが、リアルの世界のダンサーが表現するものとリンクする。ego:pression の作品には、いつもこうした多重構造の魅力が秘められている。

誘導と自由回遊を縫い合わせ、「全員で同じ物語を違う角度から読む」という不思議な読書会を成立させたのは、観客を信頼する度量があってこそだ。
回遊中に足を止めて見上げた木々、庭に落ちた梅の実、床の間に飾られた陶器──それら無数の“余白”が、一本の糸に通されていたと気づいたとき、僕は心の中でそっと膝を折った。

そしてそれだけ複雑な構成を、どんな状況であろうとも、観客達がまったく気を散らすことなく集中して味わうことができるのは、舞台裏で支えるスタッフの献身のおかげだろう。

ある回、編集者がそっと頷く横顔を見ながら、「きっと届くよ」と僕自身も頷いていた。
物語は作家の遺作というフィクションであり、演者はそのフィクションを体で紡ぐリアルな存在、観客はその断片を拾い集め、脳内で繋ぎ直す共同作者。
自分もその一人でありながら、同時に「誰かの信頼を受け取った証人」になった。

その時、舞台と客席の区別は霧散し、「これが僕に宛てられた手紙だ」と確信した。手紙を手渡されたと感じるあの体温こそ、ego:pression がたぐり寄せてくれる体験の核心だと思う。

コンペイトウ

何度も足を運びたくなる理由

紫栄庵の佇まいは、天気と時間に合わせて、劇そのものの色温度を変える。

晴れた日の昼は、庭の新緑が光を受け、石段に立つ踊り手の背に葉陰が揺れる。
雨の日は、縁側から聞こえる雫の音が休符をつくり、語られない想いを浮き上がらせる。
夜には灯された茶室が闇に浮かび、観客の息づかいまで輪郭を持つ。

紫栄庵は「舞台装置」ではなく「編集点」だ。明暗、湿度、音——どれもが物語のカットを滑らかに接ぎ木し、感情の流れを過不足なく整える。
演者の所作が強い光を浴びるとき、僕の中の理解が明瞭になり、影に消えるとき、解釈の余白がふくらむ。その往復が心地よい揺さぶりになって、毎回ラストシーンの優しさが変わらず沁みてくる。

後半、誘導の手が離れた瞬間から観客は選択を迫られる。
どの扉をくぐるか、石段を駆け上がるか、それともそこに残るか——選んだルートがそのまま自分だけの物語を刻む。

選択は自由だが、その結果を味わい切るのは観客自身の責任——そこに ego:pression 流イマーシブの醍醐味がある。
歩き去る足音、追い切れなかった背中、置いていった憂慮。どの欠落も自分で選んだ“余白”だから、作品が身体に深く残る。

自由回遊するイマーシブシアターには「完全攻略」はない。けれど、欠けていた部分がふいに埋まる瞬間、世界が一段深く息づく。観客は物語の根に触れたような心地になる。
見逃しは失敗ではなく、未来に向けて用意された招待状だ。だからこそ次の開演の時間になると、また一冊目の手紙を受け取るような気持ちで紫栄庵の門をくぐる。

ego:pression を愛する理由

僕が ego:pression の作品を追い続ける理由は、泣けるからでも、ストーリーが秀逸だからでもない。
終演後に紫栄庵を出て坂を下り、駅まで歩くとき、行き交う見知らぬ人や、街路樹の若葉、雨で濡れたアスファルトまでもが「物語を持った存在」に見えてしまう──その視界の変質こそが、彼らがくれる最大の贈り物だと思っている。

観客が回遊し、欠片を拾い、補完して完成させるスタイルは珍しくない。それでも ego:pression が際立つのは、「拾わなくても成立するが、拾った分だけ世界が深く沈む」という匙加減にある。泣くだけで終わらせず、余韻の中で“自分の生活”に物語を輸入させる余白を残す。

登場人物達は悲しみや歪みを抱えつつも、最後は必ずその存在をまるごと肯定しようとする。
観客もまた、見ず知らずの同行者や、道端で目が合った人を「主人公かもしれない」と想像せずにはいられなくなる。泣くだけで発散して終わる悲劇ではなく、「だからこそ愛おしい」というベクトルへ感情を導く設計がある。

ダンサーはキャラクターを演じながら、自身の個人的な感情をそっと棲まわせている。
演者達が見せた震えは、役の悲しみを越えて「一人の人間として何かを手放した瞬間」に見えた。そのリアルが観客の胸に引火し、フィクションとノンフィクションの境界を曖昧にする。

過去作でも同様に、演者自身の物語が垣間見えた時にこそ、僕は「世界をもっと丁寧に見たい」と思えた。
泣くだけで終わらせない鍵は、この個人性の滲ませ方にもある。

これは技術でも演出でもなく、鑑賞体験の副作用として起きる変化だ。
舞台を離れても、街角のカフェでカップを置く音が「誰かの選択の終わり」に聞こえ、電車の窓に映る乗客の眠気が「見送られなかったサイドストーリー」に見える。ego:pression は観客の視界に新しいレンズを装着させ、そのまま日常に送り出す。
泣いた記憶より、そのレンズ越しに見えた世界への愛おしさのほうが、ずっと長く僕の中で持続する。だからまた一冊目の手紙を読むかのように、次の公演を待ちわびてしまうのだ。

感情を揺さぶるだけなら多くの作品がやってくれる。
でも、世界を好きになるよう背中をそっと押してくれる存在は、とても希少だ。

『p.s.アイラブユー』で受け取ったもの

門を抜け、紫栄庵から続く坂道を下り始めると、身体の芯に残っていた音楽が静かにフェードアウトした。
足裏に伝わるざらりとした感触が、さっきまで踏んでいた畳の柔らかさと対照的で――それだけで世界が別章へと切り替わったことを悟る。

ふと立ち止まり、振り返る。
終演のアナウンスも観客の足音も聞こえないのに、あの建物は確かに呼吸を続けていて、ついさっきまでの物語を誰かの胸に届けている最中なのだと思えた。まるで、手紙を書き終えたあともインクの匂いが封筒の中で蒸されているように。

小説の最後のページを読む。受付で手渡された一枚だ。
物語の気配が戻ってくる。
恋人の踊り、編集者の頷き、陶芸家の視線。あの瞬間に込められた「大丈夫、きっと届く」という声なき声が、その文章から聞こえてくる。

坂を下りきるころには、交通量の多い通りの灯が視界の端で瞬き始めた。
道を歩く人たち――その誰もが、自分だけのページを胸に抱えているのかもしれない。そう思うと、アスファルトの匂いも、車のライトも、ほんの少しやさしく感じられる。
紫栄庵で見た一人ひとりの物語が、今この街路にも降り積もっているのだと想像できるからだ。

物語の余韻は、会場を出たあとに“世界の解像度”を上げる。
見知らぬ人の歩幅、バス停で揺れる傘、誰かの笑い声――それらがまるごと手紙の続きに読めてしまう眼鏡を、こっそりかけてくれる。泣き疲れたあとにも残るのは、誰かを好きになる準備が整った静かな心拍。

だから僕はまた封筒を開きたくなる。
まだ読んでいない一節が、まだ出会っていない涙が、どこかで僕を待っている気がして――次の公演の曲が流れる日まで、日常というページをめくりながら歩いていく。

p.s.
I love this world—because you taught me to read its margins.

ミムラス  

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物語が持つ力 ―― ego:pressionイマーシブシアター『鳳明館物語』感想

「この世界は物語であふれている」
これほど ego:pression のイマーシブシアターに合った言葉はないだろう。
それは、単に今回の『鳳明館物語』に限った話ではなく、彼らが作るすべてのイマーシブシアター作品に言えることだ。

最近何をしていたか

前回のブログからやたらと期間が開いてしまったが、この一年はずっとAIを作っていて、一カ月ほど前にようやく正式にアプリとしてサービスをリリースできた。

音声会話型おしゃべりAIアプリ Cotomo(コトモ)

ずっとこのAIにつきっきりだったので感覚が麻痺してしまい、世の人々がこのアプリに触れてどのように感じるかを全然想像できていなかったが、予想よりもずっと多くの方々に好意的に受け止めていただけた。

まだまだ発展途上というか、この「会話ができるAI」というものの価値はこれから見出されていくだろうが、少なくともコンピューターとこういう形でやり取りができるんだ、ということを証明できたのは大きな成果だったと思う。

先月はずっと、このアプリの急激なユーザー増の対応に追われていたが、それでも当然というか、僕の人生に欠かすことができない ego:pression のイマーシブシアターが上演されることもあり、3月の週末はいつもの映画鑑賞も封印して、観劇に全力を注いでいた。

どのように物語るか

劇中のあるシーンを見ているとき、ふと、ヒップホップアーティストのコーデーがTEDで話していたことを思い出した。

1枚目のアルバムが大成功した後、全力を注ぎ、満を持して出した2枚目のアルバムの結果が芳しくなく、全部を投げ出して捨てそうになったらしい。
だが、そこで彼はこう考えた

自分の人生を一冊の本だと思えば、

すべての章が完璧ってわけじゃない。

その本をどういう終わらせ方にするかが大事なんだ

絶望の底にいるときには救いにならないだろうが、少なくともそこから抜けようと思っているときならば、いいマインドセットだ。
ナラティブという言葉にも関わる考え方だろう。自分の人生を自ら物語ることで、出来事を前向きに受け止めることができる。

僕の「今の章」はどんなものだろうかと考えた。
だがコーデーのマインドを参考にするなら、今の章がたとえ完璧であろうとも、それはなんら重要ではないはずだ。

鳳明館物語

話を ego:pression のイマーシブシアターに戻そう。
今回の作品は、東京の本郷にある、鳳明館という歴史ある旅館を舞台にして行われた。
最近はイマーシブをテーマにした専用施設ができたりして、イマーシブシアターという言葉が少しずつ社会に浸透してきているようだ。
だが、イマーシブシアターと一口にいっても、それを作る人によって全く違ったモノになる。
ego:pression のイマーシブシアターを観たことがない人であれば、自分が体験したことのある他のイマーシブ作品に類するものだと想像してしまうかもしれないが、彼らの作品は、それらのどれとも異なる、唯一の体験だと断言できる。

旅館内のあちらこちらで同時多発的に、音楽とダンスによって物語が紡がれる中、我々観客がその物語を自由に追いかける。
形式それ自体は彼らがずっとやってきているスタイルを踏襲しながらも、今回の作品もまた、これまでの作品と全く違う形で、素晴らしいものだった。

文学の発明

今作は面白い構成になっていた。
太宰治谷崎潤一郎といった物語を紡ぐ作家たちが登場しながら、『斜陽』や『春琴抄』など、彼ら小説家が描いた作品の登場人物もまた、同じ場所に現れる。

その多重構造は、舞台と客席の境目がないイマーシブシアターという装置によって、否が応でももう一つの階層を認識させる。
それはすなわち、目の前で踊り、登場人物を演じている「その人」自身もまた、物語を創作している人間である、ということだ。

偉大な作家が相対する、創作することへの恐れや苦しみ。
それは同時に、それを演じている彼ら自身が負った傷や悩みでもあるのだ、と、手を伸ばせば触れられる場所で、たった一人の観客のために踊る彼らに気づかされる。

彼らを応援したい、という気持ちが、物語の中の登場人物への共感なのか、演じている彼らアーティストへの共感なのか、まるで舞台と客席の境界がないイマーシブシアターと同じように、その違いが曖昧となって、ただただその場で描かれるものに心を惹きつけられていた。

『文學の実効』という面白い本がある。
小説や詩といった創作が持つ人の心を動かす力を、神経科学の助けを借りて理解しようと試み、文学が生み出した「25個の発明」を解説している。
この本ではあくまで「文学」が対象だったが、もしその範囲をフィクション全体へと広げたならば、ego:pression のイマーシブシアターが持つ力は、間違いなく「26個目の発明」と呼んでよいものだろう。それほど強い力を持っていると、僕は思う。

この世界は物語であふれている

今作では特に強く惹かれた人物が2人いたが、どちらの演者も、作品の登場人物を演じるだけでなく、その人個人の想いを表現していたのだと、観終わった後に知った。
これがイマーシブシアターではなく、通常の舞台や、映画のような映像作品だったならば、気づけなかったか、あるいは逆に鼻につくと感じたかもしれない。
しかし、同じ時、同じ空間に立ち、他の誰でもない僕個人に向けて表現されるその姿を見ることで、純粋にその心に共感し、「その人の物語」を味わうことができた。

『鳳明館物語』のタイトルの横には「この世界は物語であふれている」という言葉が添えられている。
きっとこの「物語」とは、鳳明館物語という作品の中で紡がれる物語のことだけではないはずだ。

それは何か。
このブログで何度も述べてきたように、「この世界に存在するあらゆる人間、一人ひとりに見るべき物語がある」ということだと思う。

あまりにも当たり前だが、だが油断するとすぐに意識から消えてなくなってしまう、このとても大切なことを、演者自身の物語を感じさせることで、また改めて認識させてくれた、素晴らしい作品だった。

最後に

あなたの「今の章」はどんな物語だろう?そしてそれは、どのように続くだろう?

ego:pressionイマーシブシアター『鳳明館物語』

「生きた人間」が存在する場所はどこか?ego:pression新作イマーシブシアター『MISSION8』を体験して

 ネット上の見ず知らずの人の言葉で傷ついたことはあるだろうか。
 僕はない。もしかしたらあったかもしれないが、記憶には残っていない。
 一方で、見ず知らずの誰かを傷つけたことはあるだろうか。
 僕はたぶんあるはずだ。
 面と向かっては言わないはずの言葉がどうして出たのだろう。

ego:pressionの新作イマーシブシアター感想

 5月の連休中、このブログで何度も紹介しているパフォーマンス団体ego:pressionのイマーシブシアター公演があった。
 自由回遊型の作品は一度見ただけでは全てを味わうことができないと思っていることもあり、いつも複数回観劇に行くことにしていているのだが、だんだんとその回数が増えていて、今回も自己記録を更新してしまった。
 誘った友人の何人かも僕に影響を受けて複数回見ていたのだが、皆複数回行って良かったと言っていた。
 そしてもちろん、それ以外の1度しか見ていない友人達も全員気に入っていた。

 世の中には色んなものの熱心なファンが大勢いて、その人達が勧めること全てに耳を傾けることは不可能だと理解しているので、見て欲しい、とは言わない。
 ただ、僕は幸いにもこの団体のイマーシブシアターを1作目から見ることができているが、もし仮にその存在を知らず、5作目で出会ったとしたら、きっと「もっと早く知りたかった」と思うはずなので、そういう不幸が少しでも減ればいいな、と思って書くことにしている。
(その点においてはかなり「義務」を果たしていると思うので、後から「もっと熱心に薦めといてよ!」という苦情が来てもそれを拒否する権利はあるはずだ)

 

 さて、今作の感想だが、「こういうところに感動した・心が動いた」という話をしていると、過去に書いた感想と似通ったものになりそうなので、今回は今までと少し変えて、この作品の物語で描かれていたあることについて考えたことを書こうと思う。
 そのため、これまで以上にネタバレが多くなる。すでに終わった公演ではあるが、仮にこの作品が再演されることになり、もし貴方がそれを観る前にweb検索等で辿り着いた人なのであれば、読まないことを薦める。
 また、何度も言っているように、ego:pressionのイマーシブシアターの楽しさは、生でダンサーのパフォーマンスを体験することにこそあるので、今回の記事は何らその楽しさを共有できるものではない、という注意も書いておく。

ネタバレあり感想

 今回の『MISSON8』では、隕石落下によって荒廃した未来の地球を舞台に、生存のためのコールドスリープから目覚めた一人の人間と、人類の復活をサポートする作業を人知れず行なっていた8体のロボットたちの物語が描かれる。

 前回の記事でも書いたのだが、僕はひと月ほど前に、友人に誘われて2人で会社を立ち上げた。
 その会社では、人と自然なコミュニケーションが取れるAIキャラクターを作ろうとしていたこともあり、今作『MISSION8』に出てきたロボット達を見ていてすごく考えたことがあった。

 

 登場する8体のロボットは、物語冒頭では「ロボット然」とした、人間らしさのない無感情な振る舞いをしているのだが、コールドスリープから目覚めた人間と接したタイミングで、(一見すると偶然によって)「人工知能機能」ともいえる機能のスイッチが入り、感情や個性を持った存在として動き出す。
 作品の中で演じられていたような人間と変わらない振る舞いをするロボットは、SFの中で描かれることはあれど、今のところ世の中には出回っていない。
 しかし、ChatGPTを使ったことがある人ならわかると思うが、文字列でのやりとりに限定すれば、裏が機械オンリーでも人間とチャットをしているのと同じような体験をすることは可能だ。
 話し相手の人間と同期して笑ってくれるロボットの研究発表もあったし、二足歩行でなめらかに動く人体パーツ以外なら、場合によっては今の技術要素だけでもそうしたロボットを作ることは可能かもしれない。

 そう考えているからこそ、新しく始めた会社でコミュニケーションAIを作ろうと考えたのだが、一方でそうした知識があったがために、『MISSION8』で出てきたロボット達が「そういう」ロボットかもしれない、ということも頭によぎった。

「人間を演じる機械」ではないのか、という疑問

 「そういう」ロボットというのが何かというと、見た目の振る舞いは完全に人間なのだが、その中身を知ると人間とは思えなくなるようなもののことだ。

 そばにいる人間に共感して悲しそうな表情を浮かべたり、何かを楽しみにしながら嬉しそうに笑う。
 あるいは、耐え難い悲痛に対して涙を流す。
 感情を持っているように見えるし、何かをしたいという意思を持っているように見える。

 だが、その場の状況にあった反応を推測することなら、現在のChatGPTにすら可能だ。
 「これこれこういう状況において、人間の通常の振る舞いはどういうものですか?」と聞けば教えてくれるだろう。
 もし『MISSION8』に出ていたロボット達がそいう原理で動いていたとしたら?

 コストをわざわざかけて、ロボットにそのような挙動をさせる必要性がない、と思う人もいるかもしれないが、滅亡した地球に生き残った数少ない人間をサポートする上で、その人間のストレスのケアは非常に重要なはずだ。人と同じように振る舞い、共感してみせることで、人間の孤独を癒すことができるならば、そうしない理由はない。

 そんな考えが浮かんだがために、自分では決して出来ないような他者への共感をはじめ、僕なんかよりもよっぽど人間らしいと思えるロボットの振る舞いを見れば見るほど、「本当は決められたルールに従って機械が生成しているだけのモノなのではないか」という疑問が沸き上がってきた。

 

 物語の中では、結局最後まで僕の疑問には明示的な答えは提示されない。
 エンディングで「ぼくらはみんな生きている♪」と歌詞の無い曲が流れるが、そのこと自体も僕の疑念を解消してくれるものではなかった。

 やろうと思えばもっとはっきりと、ロボット達の人間性の存在、「生きている」と信じられるような背景を描くこともできたはずだ。
 例えば、あのロボット達を開発した人間がいたはずで、その人間からロボットへの時を超えたメッセージを、手紙なり動画なりを使い、ロボットの心の存在をはっきりと信じているような形で表現すれば、見ている側も自然と人間と変わらない存在だと思っただろう。そして、そのような描写があれば、観客もさらにロボット達に感情移入できただろうし、何より今までの作品でもあった「ego:pressionらしい」演出だ。
 その形ならその形で、今作とはまた違った深い感動を得られただろう。

 

 だが、そうはなっていなかった。
 ロボットたちの人工知能がどのような仕組みで作られているかの説明ももちろんなかった。

生きているかどうかは自分が決める

 当然、演出家には何らかの意図があったはずだが、その意図を想像するつもりはない。

 ただ、最後まで見終えて、僕はロボットの心の存在について「選択する」ことができたのだ、ということに気づいた。
 ロボット達の中身が、本当の人間なのか非人間的な機械なのかを選んで決めることができる、という意味ではない。
 仮にロボットの中身がChatGPTだったとしても、「それでもそのロボットを心ある生きた存在とみなす」ということを選択することができる、という意味だ。
 そしてその「選択」は、日常のあらゆる場所で僕自身が自覚的に行わなければいけないことなのだ、ということに気づいた。

 

 街中や電車ですれ違う人、テレビや出版物の向こう側にいる人、あるいはネット空間のあちら側にいる人、そうした人々が「機能として」人間ではない、と思っている人はほとんどいないだろう。自分と全く同じ肉体を持った存在だと思っているはずだし、僕も問われれば、彼らはロボットではない、人間だ、と答える。
 だが一方で、そうした彼らの「人間性」をどれだけ信じているか、生きた存在だとどれほど感じているか、と問われれば、僕は簡単には答えられない。
 悪意なく心無い言葉を発する人達の多くも、実は同じような気持ちなのではないだろうか。

 たとえどれだけ完璧に「自分と同じ人間としてのパーツ」で機能している存在であっても、結局のところ僕自身がその存在を自覚的に認めない限り、影響を与え合い、相互作用可能な生きた人間とみなすことは難しい。
 そう考えると、そもそも生きた人間というのは、その身体の中だけに孤立して実在しているというよりは、僕の心にある何かとの関係性の中にこそ存在しているのかもしれない。

 

 人生のスタンスとして「いろんなことに自覚的に生きたい」と思っていたのだが、まさか他者の存在についてまで自覚的でいないと見失ってしまうのだ、というのは結構衝撃的な事実だが、それを自覚させてくれたego:pressionには、毎度毎度のことだが感謝の言葉を送るしかない。

Starley株式会社 参画趣意書

本来、設立趣意書とは、広く社会に向けて書かれるものなのかもしれないが、私はあえて、この会社に集ってくれるであろう未来の社員だけに向けて語ってみようと思う。

なぜならば、私にとっての会社とは、何かの期待を持って集まる人々の集合のことだからだ。
スポーツチームのように明確な目的の元に集うわけではなく、公的機関のように課せられた使命を持った組織でもなく、気が合うからという理由でたまたま一緒になったわけでもない。

こうなりたい、こうあって欲しい。
はっきりとした言葉にはできなくとも、人は多くの期待を持っている。
その数多の期待の一つが重なる場所として、私はこの会社の設立に立ち合おうと思った。


私が期待する、この会社が受け皿となるものとは何か。


この文章を書いている今も、私の心には大きな不安がある。
会社を起業する経験が初めてであることが影響していることは否定しない。
しかし、それよりも、現在のとてつもないスピードで進化していく情報技術の変化への恐れ、興味があったはずのその分野で何者でもない今の自分への劣等感、そして、そんな状態でありながらもその分野で何かをなそうと会社を始めることへの恐怖、それらが生み出す、自分が何の価値もない存在だと錯覚してしまいそうな不安が私の心を大きく占めている。
逃げ出したいとさえ思っている。

そのようなストレスとは距離を置いて、自分の身の丈にあった仕事をし、平穏な生活をするという道もあっただろう。
仮に多元世界のうちの一つでそれを選択した自分がいたとしても、私は何も非難しないどころか心から肯定する。

だが、もし私が感じているこうした不安を、この世界の他の誰かも感じていたならば。
あるいは今は感じていなくとも、近い将来その不安に悩まされる人々が現れるとしたならば。


私はかつて、自律した個人という存在を信じていた。そのような人間になりたいと思っていた。
しかし、ヒトとは人間と人間との相互作用の中に存在する概念であり、決して孤立した一人の解としては存在できないと悟った。

であるならば、私と似た人々の不安をケアすることこそ、自分の不安を和らげ、自らを幸せに導いてくれる道なのではないかと考えるに至った。


この会社が受け皿になって欲しいと、私が期待するものは「共鳴」である。
「立ち向かう(Stand up to)」べきものと向き合う際に、
「傍に立つ(Stand by me)」ことで安心を与えてくれる仲間と共に、
社会の人々を、私が感じた変化への不安から解放し、より自由で幸せな人生を送ることができるようにする。
そのために、仲間達と共鳴し、「人々の心と共にありつづける何か」を作る。
そんな会社であって欲しいと願いながら、Starley株式会社のメンバーとして、ここに参画する。

2023/3/24 内波生一

AIとサービスに倫理を実装する:「倫理エンジニア」という新しい職種

タイトルに入れた「倫理エンジニア」は完全に造語で、英語の”ethics engineer”を含め誰も使っていそうにないので、今の世の中にそのような職種があるわけではないのだが、最近思いついたことを整理したいのと、あわよくばそんな職で雇ってくれるところがないかな、と思って書いた。

情報技術の発達が産んだ、一見すると新しい倫理

はるか古代より、ビジネスと倫理には切り離せない関係があった。
貴方の両親が生まれる前どころか、紀元前からあったであろう金貸し業は、現代の今においても利率をはじめとしたビジネスのあり方が議論の対象になっている。
一方、もし貴方に子供がいれば、その子が生まれた後の時代に発見され、議論されるようになった倫理的な問題もある。
情報技術が発達し、AIと呼ばれるような、多くのデータとそれを機械的に識別して価値を生む機能が使われた結果、意図せず生まれる差別や道徳的に問題のある挙動に関する倫理だ。

「黒人が映った写真に対してAIがゴリラとタグ付けした」「人事評価AIが女性に対して低い点数をつけがちだった」などの事例を耳にしたことがある人もいるだろうし、
「車の自動運転では、事故が避けられない時、乗っている人間と歩行者のどちらを優先すべきか」「AIに生成させる絵画は、既存画家の”絵柄”をどこまで真似て良いのか」といった今も善し悪しが決まらず議論され続けている問題もある。

こうしたことを議論する「AI倫理」という単語は昨今広く使われるようになっており、最近は書籍や記事が多く公開されている。
生命倫理の問題から提唱されるようになったELSI(Ethics, Legal and Social Issues)と呼ばれるものの一分野であり、昨今は”倫理”としてのCEO(Chief Ethics Officer=最高倫理責任者)や倫理委員会を置く企業も増えてきている。
その倫理についての話自体、非常に面白いのだが、今回の記事ではそうした倫理がどうあるべきかという話ではなく、その倫理を実装するための人が必要となる、という話である。

本当に企業に倫理が必要になるのか

「ELSIなんてアカデミックな研究の中だけの話だし、倫理のCEOや委員会なんかも過去に問題が起きた時に対策の一環として作られたパフォーマンス用ポジションでしょ。そんなのを真面目にやる企業なんてないよ。」
という指摘があるかもしれないので、3つの観点からその必要性を上げてみよう。

3つの観点と言っても、完全に独立した要素ではなく、倫理に共通した要因から生まれる動機のため、実際はそれぞれ関係しているのだが、分かりやすくするためにあえて身近な概念と対比して並べてみる。
その概念とは「セキュリティ」「環境問題」「デザイン」だ。

セキュリティとの対比:企業の被害を防ぐ

必要性が一番わかりやすいのは「セキュリティ」と似た考え方だろう。
昨今の情報サービスでは膨大なデータが扱われ、ネットを介して決済が行われることで直接的なお金の動きも発生する。
社会を騒がすセキュリティインシデントは枚挙にいとまがなく、情報漏洩によるイメージダウンや損害賠償、もっと直接的な不正送金や資産の盗難があれば、企業が受けるダメージは計り知れない。
そうした被害を防ぐためにどの企業もセキュリティに力をいれ、昨今はセキュリティエンジニアと呼ばれる人々が引く手数多だ。

倫理面においても、セキュリティと似た危険性が指摘できる。
例えばアメリカで雇用差別禁止法をベースに訴えられて負けた場合、懲罰的賠償金制度の影響もあってそのダメージは計り知れない。
冒頭で挙げたような人事評価AIを使った結果、年齢や性別、人種といった属性による合意なき選別が行われてしまっていた時に「知りませんでした。その意図はありませんでした。」で免責できるだろうか?
少なくとも、AIの代わりに1日1万人の応募書類を判断できる超人を雇ったとして、その超人の偏見が原因で特定の人種が排除された場合、その従業員個人に責任を押し付けて逃げる、ということは絶対に不可能なはずだ。

金融機関でのセキュリティホールのように倫理の穴が原因で直接的にお金が奪われることはないかもしれないが、ゴリラタグ事件で失われた潜在的なユーザーや顧客(広告主)はゼロではなく、金銭的なダメージがあったはずだ。

環境問題との対比:社会の規制に従う

詳しい人に向けてはEUGDPR(個人情報を保護するための規則)の話をした方が早いかもしれないが、一般的にはそこまで知られていない話だと思うので環境問題との共通点で話をしよう。
国などの公の機関から要請される規則として必要とされる、というパターンだ。

かつて日本でも公害が問題になったように、企業が自身の利益だけを追求して経済活動を続けていると、結果的に社会全体でその大きなツケを払わされる、ということがある。
昨今の気候変動をはじめとした環境問題への高い関心は、このような社会的な悪影響を減らすための活動であり、世界的な取り組みをもとにさまざまな規制が行われている。
例えば有名なものは自動車の排ガス規制であり、一定の基準を満たしたものでなければ売ることができない。
これは、そのような規制がなければ、社会全体が自動車の排気ガスによって回復不能なダメージを負うからであり、資本主義の自由市場の中であってもあるべき規制として受け入れられ、遵守されている。

「環境と違って倫理なんて単に気持ちの問題じゃないの?」と思うかもしれないが、倫理面においても環境問題同様、人々を完全に自由に振る舞わせていると、結果的に社会が毀損されるようなことはありうる。
なぜ環境と同じように倫理が社会から要請されるかと言えば、それが人間の権利、すなわち自由と平等、そして民主主義を守るために必要なものだと思われているからだ。
先に挙げた雇用差別禁止法などは、まさにそうした権利と民主主義を守るためにあるものだ。
差別的なバイアスを元にした選別を許してしまえば、特定の属性を持った人々の権利が侵害されるし、人々が目にする情報を隠れてコントロールする技術で選挙結果が左右されるようなことがあれば、民主主義の根幹に関わる。

デザインとの対比:ファンを作る

今までの2つはマイナスを回避するための必要性だったが、企業にとってプラスのための考え方もある。

Apple社は、多くの人々に受け入れられる優れたプロダクトを世に送り出してきたが、そのヒットの要因としてデザインの力があったことに同意する人は多いだろう。
他社と差別化された、洗練されたデザインのプロダクトを作ることによって、特別なファンを増やしてきた。
これはApple社に限った話ではなく、デザインは昔から大きな力を持っていて、現代では多くの企業でCDO(最高デザイン責任者)が設置され重要視されている。

それと同様に、倫理がそのサービスを他社と差別化し、多くの顧客を惹きつける要素となる、と言ったらどう思うだろうか?

SDGsなんて今時どの企業も同じことを言っているし、倫理で差別化なんかできるの?」という疑問はあるだろう。
しかし、環境問題のゴールが多くの人々の間で一致している点と異なり、倫理の分野では単一の絶対善を前提に進められることは少ない。
冒頭で挙げた自動運転のあるべき姿などは、一般の人々にアンケートをとると大きく意見が分かれることが知られている。
そのため、大枠は社会的な合意のもと形作られるものではありつつも、例えばその方針に同意する人だけが利用する、といった形で、同様の機能を提供するサービスにも関わらず、各社で振る舞いが異なることも十分ありうる。

例えば、貴方が弁護士を雇う必要に迫られたとき、どのような基準でその弁護士を選ぶだろうか?
弁護”機能”だけを重視するのであれば、最も裁判に強い弁護士を選びたくなる。
だが、それが本当に貴方の幸せにつながることだろうか?
どんな手を使ってでもこの裁判に勝つことこそが、人生の最終目的です、という人は相当稀だろう。
もし裁判に負けたとしても、あるいは和解等を介して単純に勝つことそのものよりも、幸せになる、ということがあっても全く不思議ではないはずだ。
そう考えると、僕であれば「この人と一緒に考え、自分を代理してもらえたら、結果はどうあれ納得する」という人を選びたくなる。

候補の弁護士がかつて凶悪な殺人事件の犯人の弁護をしたことがあったとしよう。
人によっては「殺人犯の弁護した人間なんて信じられないから嫌だ」という人もいれば、全く逆に「なんぴとたりとも弁護を受ける権利がある、という弁護士のあるべき姿を体現している人だから信頼できる」と思う人もいるだろう。

そうした”人格”をもとに弁護士を選ぶ、ということは多くある。

さて、もし自分を弁護してくれる機能を提供するAIがあったとしたらどうだろうか?
複数の企業から提供されている弁護AIのうち、どれを選ぶだろうか?

利用者が求めているものが単なる”機能”であった場合、人々に必要なのはその製品のスペックだろう。
「こういうときはこういうアウトプットになります」という仕様が詳細にあれば、それを元に比較することができる。
だが、単に機能が欲しいのではなく、ある種の人格を持った存在としてそのサービスを受けたい、と考えた場合、その製品がどういった倫理観を持ってどう振る舞うのか、ということに関心が向いたとしてもおかしくない。

この世界のすべての人から支持されるわけではないかもしれないが、それでもその人格を好きだと言ってくれるユーザー達に囲まれる。
そうしたサービスを実現するために、倫理が必要とされる。

なぜ倫理”エンジニア”が必要なのか

上で述べたロジックはかなり雑かもしれないが、仮に本当に、企業が提供する製品やサービスに倫理が求められていくとして、それがどうしてエンジニアと関係するのだろうか。
最高倫理責任者や委員会、ELSIの研究者達の考えを従業員に浸透させることだけでは足りないのだろうか?

確かに、サービスのコンセプトレベルで倫理的瑕疵のあるものであれば、それに気付いてブレーキを踏むのことにエンジニアは必要ない。
あるいは、何も考えずにリリースすると炎上する恐れがあるサービスについて、社会やユーザーと適切にコミュニケーションを取り、心配を取り除くような施策を考えて実施するのであれば、誰がやっても良いだろう。
単純に「顧客の情報を盗み見しない」という倫理であれば、従業員の教育こそが必要だ。

だが、今問題となっているものは従業員の振る舞いではなく、サービスの振る舞いだ。
仮にその企業で働く全従業員が高い倫理観を持ち、人種差別に高い問題意識を持っていたとしても、その企業が作ったAIが特定の写真にゴリラタグをつけない、ということは全く保証されない。それをするためには、従業員ではなくその”AI自体に倫理を教育”しなければいけない。
どれだけ優れたカリスマデザイナーが所属するファッションブランドであっても、デザイン通りに縫って形にできる職人がいなければ服が生まれないし、
地球環境を最大限考慮した電気自動車を作りたいと思ったとしても、その車を作ってくれる技術者がいなければどうしようもないのと同様、
作るものに倫理を実装するためには、その”思想”ではなく、その”能力”を持った人間が必要となる。

例えば、最近話題になっているAIチャットボット(あたかも会話しているかのような自然なテキストを生成してくれるもの)の ChatGPT は、極力差別的な言説を返答しないような挙動をしているが、それは技術者達の手によって、AIがそのように振る舞うように注意深く設計され開発されたためであり、たまたまああなっているわけではない。

ChatGPT にどうやって差別を回避しているか聞いてみた結果。事実を述べるための機能ではないので、実際この通りにやっているかは不明だ

そう考えると、Webサービス業界での狭義のセキュリティエンジニアがインフラエンジニアと近しいのと同様、狭義の倫理エンジニアリング業務はAIエンジニアが担うことになるのは間違いない。
なぜなら、AIのインプットやアウトプットをコントロールできるのは、まさにそのAIを開発するAIエンジニアであるし、AIに必要な機能としての倫理要件が”正しく”与えられれば、AIエンジニア達はそれを実装するだろう。

だが近年「セキュリティエンジニア」という独立した呼称が広く使われるようになっているように、この倫理エンジニアリングも独立した技能として認められていく可能性は高い。

その理由の一つは、これが単にAIに閉じた話だけではないからだ。
広義のセキュリティエンジニアが、インフラのみならず、アプリケーションレイヤーや、さらに広い複数のサービスにまたがったレイヤーのセキュリティ担保を期待されるのと同じように、
倫理エンジニアリングでも、AIだけでなく、データを利用するあらゆる機能、そしてそうした機能を組み合わせてユーザーに提供されるサービス体験に、正しく倫理が担保されることを期待されるため、AIの枠を超えた知識とスキルが必要とされる。

もう一つの理由は、仮にAIに限った話だとしても、課題が非常に難しいからだ。
例えば、ゴリラタグ事件から学習して避けるべきことはどんなことだろう?
Googleは炎上があって直ちに「ゴリラ」というタグを停止し、同様に「チンパンジー」や「サル」も同じ扱いにしたらしい。
だが、それ以外は?ヒトラーに似ている人間にヒトラータグが付くことは?
考えていくとそもそもタグをつけるという機能それ自体をやめたくなる。

顔識別に関する炎上の事例では、技術者視点でさらに同情を集めそうな例がある。
「入国審査で目が細いアジア人の顔を『目を瞑っている(から目を開けて撮り直せ)』と判断してしまった」
という事件だ。
これが問題になるの?と驚く人もいるかもしれない。
技術者としては「単に学習が足りなかっただけで、なんなら目が細い白人でも同じ結果になるし、アジア人を差別する”意図”はない」と言うだろう。
が、世の中の多くの差別案件の謝罪で使われがちなこの「差別の意図はない」は、通常全く何の効力も発揮しない。
顔を識別する側がAIではなく人間であったならばと考えると、実際に今この世界で、アジア人が差別される場所があり、カリカチュアライズされたものを使って揶揄される事例があるのであれば、その回避が求められるだろう。
あるいは車の自動運転における画像認識の分野では散々取り上げられていることだが、「ハロウィンの日にコスプレをしていた人間を識別できずに轢いてしまいました」というケースと、「特定の宗教を信仰している人々だけが纏う服装のため識別できずに轢いてしまいました」というケースでは、どちらも認識能力が”足りていなかった”というだけの原因にも関わらず、社会から向けられる視線はかなり異なるだろう。

つまり、考慮すべき内容とは、事前に決められている有限の要件ではなく、未知のものが無限にあり、それを常に考え続けなければいけないのだ。
この困難さもセキュリティの分野と近しい。
インシデントのデータベースを元に様々な知見が得られてきているが、常に新しい脆弱性セキュリティホールが見つかり、その度に知見がアップデートされている。セキュリティエンジニアは常にその最新の情報をキャッチアップし続けなければいけない。

AIであるが故の難問はさらにまだある。
AIの判断理由を説明できなければいけない」という要請だ。
例えば、採用選考AIによる性差別を回避するため、AIに参照させる履歴書・職務経歴書から性別欄を削除したとしよう。
AIは入社後の活躍に一番影響しそうな隠れた因子を見つけ出して最終スコアを出したが、よくよく調べてみると結局その応募者が男性なのか女性なのかを性別以外の情報から判断していただけだった、ということも起こりかねない。
そのため、「一番活躍しそうな人を選びました」というのは雇用差別禁止法的には何の説明にもなっておらず、どういう要素から活躍を判断したのか、という説明が必要となるのだ。
まだ知られていない避けるべき振る舞いが無限にあるにもかかわらず、その要因が直接的には見えずに隠れて影響していることまで避けなければいけない、というほとんど原理的に不可能なことが必要なのだが、この”AIの判断理由の説明”を誰の目にも明らかな形で出すことができれば、その不可能な要件に近づくことができる。

倫理エンジニアに必要なこと、必要じゃないこと

飛躍の飛躍になってしまうが、仮にこれまでの話が正しいとして、どんな人間が倫理エンジニアになるだろうか?

3つのパターンと必要なスキル

必要とされる知識やスキルから裏返して考え、3つのパターンを挙げてみた。

AIエンジニアが持つ強み

一つ前の節でも述べた通り、インフラエンジニアとセキュリティエンジニアの関係と同じように、AIエンジニアが最も関係が深く、その代表となることは間違いないだろう。
昨今「AI倫理」という言葉が盛んに使われるようになったように、AIを利用した際に発生する倫理的問題こそが一番の大きなトピックであり、そのAIに一番詳しいのはAIエンジニアで、AIが問題あるアウトプットをしないように開発することができるのもAIエンジニアだけだ。
ただ、AIの開発にあたって「こういうAIが欲しい」という要件が事前に定義される際、倫理の要件まで完全に網羅して定義されることはほとんどありえないだろう。
そのため、AIエンジニアはこれまでの倫理的AIインシデントの事例を常にフォローし、自分が開発する機能との類似を考え、どのようなことを考慮しなければいけないのかを自ら定義する必要があるが、それができればAIのコントロールで高いバリューを発揮するだろう。

研究者が持つ強み

次に考えられるのは、科学を専攻し、研究をおこなってきた人間だ。
研究者はエンジニアとはまた別種の生き物ではあるが、先に述べたAI倫理での非常に重要な要件「説明できること」における”説明”は、科学的なアプローチに近い。
科学者は自然現象や様々なデータから、その振る舞いを最もうまく説明できる仮説を立て、その仮説の穴を潰して論文にすることを仕事とする者が多く、統計等にも詳しい。
交絡因子などの隠れた要因の存在は、自身の研究を発表する限り常に他の研究者から指摘され続けることであり、AIエンジニア同様倫理要件の整理ができれば、「説明」の分野では高いバリューを発揮するだろう。

データ(内容に詳しい)エンジニアが持つ強み

もう一つはAIの学習等に利用されるデータの収集を行ってきた等により、そのデータについて詳しいエンジニアだ。
データを使った機械的な識別や数値化における倫理的問題の中には、元になったデータが抱えていた潜在的な問題が原因となっているケースも多い。
シンプルに、現存する人種差別の影響を受けたデータをそのまま学習して人種差別的な数値を出してしまうこともあるし、あるいはただ特定の領域データだけが欠損していることによってその領域に関連した人間だけが不利益を被ることもある。
そのデータがどのように収集されたのかが完璧に記述されていれば、データを利用する人間に様々なことを気づかせてくれるが、実際には学術的研究の分野ですら、分析や学習に利用される元データに完璧な説明があることは稀である。
データを収集した人間の頭の中には多くの暗黙的な知見があり、その人間が、考慮すべき倫理的要件をインシデント事例等から構築する力を得ていれば、その要件とデータの内容を結びつけて、注意すべき点をピックアップすることができるだろう。

高い倫理観は必要ない

これまで倫理エンジニアに必要な知識やスキルを述べたが、逆に必要だと勘違いされそうだが全くそんなことはないものをあげよう。
それは”倫理観”だ。
グッチのバッグを縫う職人にファッションセンスがなくともいいし、Web業界で「エンジニアデザイン(笑)」と揶揄されるようなデザインセンスがない人間が画面をコーディングするフロントエンドエンジニアをやっていい。
デザイナーが正しく設計を伝えることができれば、何の問題もなく製品は作られるからだ。

同様に、もし倫理要件が正しいプロセスで正しく定義されるのであれば、倫理エンジニアは倫理観を持っている必要はない。
むしろ、何かを作る際に「デザイナーは赤って言ってるけど、僕は青の方が好きだからここは青にしときました」などという技術者がいたら困るように、個人の倫理観で勝手に実装をすることは許されることではない。
サービスに実装すべき倫理とは、過去の倫理的インシデントを元に指針が作られる場合もあるが、様々な観点から論じられて定義されるものである。
倫理エンジニアは己の知見を元にその議論の進行役になることはあっても、自身の思想を押し付けることはしないので、高い倫理観をもっていようがなかろうが、最終的なアウトプットに影響はないのである。

最後に

この記事はどこかの企業にヒアリングしたり調査して書いたものではないので、ほとんど妄想だが、もうすでにこのようなことを期待されて働いている技術者もいるかもしれない。もしそうであれば、是非その人の話を聞いてみたい。

そして最後に、こんなにも長く、与太話のような記事を読んでくれて、その中でなおかつ「面白そうだから自社でそういうポジションを考えたいかも」と思った奇跡のような人がいたら、是非ご連絡ください。

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