漫画、小説、ゲーム、映画。
"物語"を楽しむ表現形式には様々なものがあるが、どれが一番のお気に入りだろう?
僕は毎週末映画館に通っているので、費やしている時間は映画が一番だと思うが、「一番好きなもの」を聞かれれば別のジャンルを挙げる。
文学、あるいは物語における「発明」
アンガス・フレッチャーの『文學の実効(Wonderworks)』という本がある。
文学を「何を伝えようとしているか、どんな意図があるのか」という意味や主張からではなく、それを読むことで、人間の心や身体に何が起こるのかという視点から読み直す本だ。
物語は、勇気を生んだり、悲しみを癒してくれたり、他人への共感を生んだりする。フレッチャーは、古今の作品をたどりながら、そうした作用を可能にした物語上の「発明」を探していく。
この見方が僕はとても好きだ。
そして本を読んでいて、少し別のことを考えた。
小説、漫画、映画、アニメ、舞台、ミュージカル、ゲーム。
同じ「物語」を扱っていても、それぞれの表現形式には、それぞれが発明した人間の心への触れ方があるのではないか。
もちろん、ある形式でしか生み出せない感情がある、という話ではない。小説でも映画でも舞台でも、人を泣かせたり、勇気づけたり、誰かを好きにさせたりできる。
違うのは、そのために使える道具だ。
作者が何を決め、何を受け手に委ねるのか。
受け手の目や耳や身体に、どこまで直接働きかけるのか。
そう考えると、それぞれの形式が長い時間をかけて発明してきたものが見えてくる。
まずは、いちばん古典的なところから考えてみる。
小説: 他人の心を、自分の中で動かす
小説には絵も音もない。
登場人物の顔も、部屋の明るさも、声の震え方も、文章に書かれていないかぎり存在しない。
それでも僕たちは小説を読むとき、そこに人を見る。
短い抱擁だった。ふたりは一瞬だけ目を見つめあい、そして離れていった。
フェルナンド・アラムブル『祖国』 木村裕美 訳
実際には何の映像も与えられていないのに、僕たちは彼女の表情を想像し、二人の関係を推測し、何を感じているのかまで考え始める。
小説は、完成した世界を読者の頭の中に送り込んでいるわけではない。
その世界を作る仕事のかなりの部分を、読み手にやらせている。
その中でもとりわけ大きなものは、人の心だ。
小説を読んでいる間、僕たちは何度も、この人はなぜこんなことをしたのか、本当は何を望んでいるのか、本人すら気づいていない気持ちは何なのか、と考える。
他人の心についての仮説を、自分の頭の中で何度も作っては更新する。
小説が発明したものを一つ選ぶなら、
「他人の心を、自分の心の中でシミュレーションする技術」
と呼びたい。
漫画: 欠けたものを、自分でつなぐ
小説と違い、漫画には絵がある。
けれどその絵は完全には連続していない。
あるコマで男が手を振り上げ、次のコマではその男が吹き飛んでいる。殴られた瞬間の絵はどこにも描かれていない。
それでも僕たちはその間に何が起きたかを自然に補うことができるし、実際にそれをする。

漫画では、こうした「コマとコマの間」を繋ぐ作業を、読者自身が行っている。 しかも映画とは違い、読む速度も自分でコントロールできるから、数秒で読み飛ばすこともあれば、一枚の絵の前でじっくりと立ち止まることもできるし、前に戻ることすら可能だ。
すなわち、漫画は物語の時間を完成品としては渡さない。
出来事の一部を意図的に欠落させて、その欠落を読者が自分の心の中で完成させている。
漫画が発明したものを選ぶなら、
「欠落を、参加に変える技術」
と呼びたい。
映画: 注意を設計する
映画は作者たる監督が非常に強い力を持った表現形式だ。
観客は、カメラに映っているものしか見ることができない。
誰の顔を見るか、いつその顔から離れるか、どの角度で近づくか。何を先に見せ、何を最後まで隠すのか。
こうしたことをすべて作者が決められ、観客がそれを変えることはできない。
映画を観ているとき、僕たちは自由に世界を眺めているようでいて、実際にはかなり精密に視線を導かれている。
さらに編集と音楽が加われば、視線だけではなく時間まで操作できる。

「ここで不安を感じて欲しい」「この瞬間まで知らないでいて欲しい」「ここは混乱して欲しい」
作者はこうしたことを、多くの観客にほぼ同時に起こすことができる。
だから映画の発明とは、単に「他人の視点を借りる」ことではない。
「他人の注意を、一本の時間軸に沿って制御する技術」
それによって映画は、驚きやサスペンス、恐怖や期待を、とても高い精度で組み立てられるようになった。
アニメ: 心の中を世界の法則にする
アニメにも映画と同様、カメラと編集があるが、決定的に違うところが一つある。
それは、アニメは最初から、現実の物理法則に従う必要がない、ということだ。
悲しければ世界から色が消えてもいいし、怒りで身体が巨大化してもいい。
恋をして身体が浮き上がってもいいし、恥ずかしくて人間が小さくなってしまってもいい。

色付く瞬間
もちろん、実写でも特殊効果で同じようなことはできるが、そもそもアニメは「現実の世界」が基準ではない。線も色も動きも、すべて最初から作られたものだ。だから、普通なら比喩としてしか表現できない心の状態を、その世界の現実として存在させることができる。
アニメの発明を一つ選ぶなら、
「心の中を、世界の物理法則にする技術」
なのだと思う。
舞台芝居: 虚構に本物の体を置く
舞台には、映画にはない奇妙なものがある。「目の前にいる人間が、本当にそこにいる」ということだ。

演じられているキャラクターはフィクション、すなわち架空の人物だ。起きている出来事も作り物だ。
けれど、その俳優が息をしていることは本物だし、その声が今この場の空気を震わせていることも本当だ。
こちらを見ることも出来るし、失敗することも出来る。
つまり生の舞台では、出来事は虚構なのに、その出来事を演じている身体だけは現実に存在している、という不思議な二重性がある。
映画の登場人物が怒鳴っても、僕たちが危険にさらされることはない。
舞台でももちろんそれは同じはずなのだが、数メートル先の人間が突然大声を出せば、現実の身体はそれを現実の出来事として受け取る。
舞台芝居が発明した一つの技術とは、
「虚構を、社会的な現実としてその場に発生させる技術」
と呼べるかもしれない。
ダンス: 意味を決めずに感情を渡す
バレエのようなダンス舞台では、言葉がほとんどなくなる。その結果、観客が受け取るものから一部の"正解"が消える。
例えば一人の踊り手が、もう一人に近づく。手を伸ばし、触れる直前で止まる。相手は離れ、そしてまた戻ってくる。
そこには明らかに何かがあると感じられる。
愛かもしれない。あるいは恐れや未練かもしれない。赦そうとしているのかもしれない。
僕たちはその身体の動きから、かなり多くの感情を受け取る。

けれど、それが「何を意味しているのか」は最後まで確定しない。
「私はあなたを愛している」と言った瞬間にたくさんの可能性が消えるように、言葉には意味を決める力があった。
ダンスではそれを使わない。だからこそ「感情の解像度は高いのに、意味の解像度は低い」という状態を作ることができる。
これは欠点ではなく、むしろ大きな発明だ。
それを一言でいうならば、
「意味を確定させないまま、感情だけを精密に渡す技術」
なのだと思う。
人形劇: 物に心を生む
人形劇にはさらに奇妙なことが起きる。
そこにいるのは人間ですらない、木や布や糸でできた物だ。僕たちはそのことをはっきりと知っている。
それでも、人形が少し首を傾げただけで、「この人は困っている」と思う。誰かから顔をそむければ、「怒っている」と思う。 動かしているのが人間だと分かっていても、その人間ではなく、人形そのものに心があるように感じる。

人間はどうやら、心を受け取るだけではなく、わずかな手がかりから積極的に他人の心を作り出してしまうらしい。
人形劇は、そのことをとても露骨に見せてくれる。ただの物体だったものが、ほんの少し動いた瞬間に、「誰か」になる。
だから人形劇の発明を一つ選ぶなら、
「物から、人格を発生させる技術」
と呼びたい。
ゲーム: 「見た」が「自分がやった」に変わる
そしてゲームでは、これまでとは別の大きな変化が起きる。観客が、物語に手を出すことができるようになったのだ。
映画で誰かが重大な選択をしても、それはその人物の選択だった。
僕たちはその結果に驚いたり、悲しんだりすることはできる。
けれどゲームでは、「こちらを選んだのは自分だ」という事実が残る。
結果として誰かが傷つけば、「彼がそうした」ではなく、「自分がそうさせた」に近づく。
そこで生まれるのは、これまでのような単なる共感ではない。責任や誇り、後悔や罪悪感を感じ、そして自分の判断を正当化したくなる。
物語の中の出来事が、少しだけ自分の行為になる。

大きな選択肢だけでなく、一つ一つの小さな「行動」が同じ効果を生む
もちろん、すべてのゲームが物語を分岐させるわけではない。
それでも、自分で歩き、自分で戦い、自分で扉を開けるというだけで、観客として「眺めている」こととは違う、ユニークな感覚が生まれる。
ゲームが発明したものを一つ選ぶなら、
「物語への共感を、物語への責任に変える技術」
なのだと思う。
イマーシブシアター: 自分だけの目撃を作る
最後は、冒頭で述べた僕が一番好きな形式「イマーシブシアター」だ。
初めて聞く人もいるだろうし、一言で「イマーシブシアター」とくくっても様々な形があるため、知っていても想像と違う人もいるだろう。
簡単に捕捉すると、「セリフ無しに、観客が自由に回遊しながら観劇する」スタイルのダンスをベースにした芝居のことだ。
そしてその中でも特に、僕が大好きな団体、ego:pression が多く採用しているものに魅せられている。
11月~12月に新作が公演されるので、ぜひ一度観て欲しい。
彼らが作るイマーシブシアターは、ここまで見てきた表現形式のいくつかと重なる部分がある。
舞台芝居は、物語をいま・ここで起きている出来事にした。
ダンスは、その出来事が何を意味するのかを言葉で確定せず、解釈を観客に残した。
そしてイマーシブシアターは、その出来事を見る場所まで観客に委ねる。
通常の舞台なら、観客は客席に座っている。物語は目の前で起きるけれど、観客がいる場所と、物語が起きている場所は見えない壁で分かたれている。
イマーシブシアターでは、その境界がなくなる。
観客は部屋を歩き、人についていき、ときには目の前を誰かが走り抜ける。右へ行くこともできるし、左へ行くこともできる。一人の人物についていけば、そのあいだ別の場所で起きた出来事を見ることはできない。
ここで観客に渡されるのは、ゲームのような「因果」とは異なる。
多くのイマーシブシアターでは、観客がどちらへ行っても、世界で起きる出来事そのものは変わらない。
変わるのは、自分が何を知ることになるかだ。
誰の孤独を目撃したのか。他の誰も見ていないあの場所で、誰と誰が手を取り合ったのか。あの人物がなぜ最後に泣いていたのか。
同じ作品を見たはずなのに、それを知っている観客もいれば、知らない観客もいて、持ち帰る物語がみんな違う。
イマーシブシアターが観客に渡したものを一つ選ぶなら、それは「目撃」なのだと思う。
「何が起きたか」ではなく、「私は何を見たか」が作品の一部になる。
言葉がないため、自分が目撃した出来事の意味まで完全には決まらない。
二人が長いあいだ見つめ合っていた。一人が手を伸ばし、相手はその手を取らなかった。二人は別々の方向へ歩いていった。
そこで何が起きていたのか。
恋だったのかもしれない。別れだったのかもしれない。あるいは別の時間に生きていたのかもしれない。
観客はまず何を見るかを選び、そして次に、見たものが「何だと思う」かを選ぶ。
この二重の余白が、イマーシブシアターのとても特殊なところだと思う。
映画では、作者が観客の注意をかなり精密に設計できる。
ゲームでは、観客が物語の因果に参加できる。
舞台では、物語が観客と同じ現在に出来事として立ち現れる。
ダンスでは、感情は伝わっても、その意味は確定しない。
イマーシブシアターは、それらとは少し違っている。
出来事は作者が作るが、どの出来事と出会うかは観客が決める。
そしてその出来事が自分にとって何だったかも、観客が決める。
だから、作品を見終えたあとに残るものも少し違う。
映画や舞台なら、「あの場面がよかった」と話せるけれど、イマーシブシアターでは、「あのとき、あの人が一人で踊っていたのが忘れられない」と言ったとき、「そんな場面があったの?」と返されることがある。
その瞬間、自分が持ち帰ったものが、作品に最初から完成された形で置かれていたわけではなかったことに気づく。自分がその場所へ行き、その人についていき、その距離から見たからこそ生まれたものだったと知る。
それは少し、記憶に似ているかもしれない。僕たちの現実の記憶も、世界で起きたことすべてを保存できているわけではない。自分がその時どこにいて、何を見て、何を見落とし、その出来事をどう理解したかによって作られている。
イマーシブシアターも、それに近いものを作る。
完成された物語を観客の頭へ渡すのではなく、観客自身に、ひとつの「目撃の記憶」を作らせる。
僕がこの表現形式を好きな理由の一つは、たぶんそこなのだと思う。
作品は間違いなく作者によって作られている。ダンサーの動きも、音楽も、空間も、起きる出来事も、綿密に設計されたものだ。
けれど最後のところだけは完成させない。
誰を見るのか、何を見逃すのか、そこに何を感じるのか。
それが観客に渡されている。
小説は「想像」を読者に渡した。
漫画は「補完」を読者に渡した。
映画は「注意」を作者が引き受けた。
アニメは「世界の法則」まで作者が描いた。
舞台は、物語を「出来事」としてその場に立ち上げた。
ダンスは「意味」を観客に残した。
人形劇は「人格」を観客に作らせた。
ゲームは「因果」を観客に渡した。
イマーシブシアターは、「何を目撃し、それを何だと思うか」が観客に渡されている。
それもまた、人間が物語を語る長い歴史の中で生まれた、一つの発明なのだと思う。





