変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

意志の生まれる場所、人が交差する瞬間:ego:pression新作イマーシブシアター『RANDOM18』感想

ego:pressionという団体のイマーシブシアターに対する考えは前回の記事で書いた通りだが、今日はその最新作『RANDOM18』の感想をまとめようと思う。

どういう作品だったかを簡単に

廃業した5階建のカプセルホテルビルを近未来のシェルターに見立て、人類滅亡の危機を回避するためにコールドスリープで眠りについた18人が、そのシェルターで目覚め、様々な障害に立ち向かって生きていく姿が描かれる。
演者は全員ダンサーで、芝居は台詞の代わりに全てダンスで行われる。
またこのタイプのイマーシブシアターの醍醐味でもあるのだが、登場人物達は建物の中を自由勝手に動き回るため、観客である我々もそれに応じて自分達の意思で見る対象を決めて動き回ることになる。
休憩なしのノンストップ100分間、登場人物達を自らの足で追いかけ、そのダンスに心打たれながら、どんな物語が描かれているのかを自分自身で見つけ出していく体験だ。

1400分の作品の楽しみ方

この1ヶ月の間に14回の公演があり、もちろんその全てではないものの、僕はいくつかの回に足を運んでいたのだが、今日まで感想はネット上に出さなかった。
そうしなかった一番の理由は、僕にとってこの作品は、100分間の創作を繰り返し観るという形の作品ではなく、7月の初演から今日の千秋楽までが、大きく一つに繋がった作品だったから、ということになる。
チケットを1枚だけ買った人にとってはその日で観劇が終わったと思うが、まだチケットが残っていた僕にとっては、1回1回の観劇の合間は、例えるなら舞台演劇における1幕と2幕の幕間の時間そのものであって、まだ「観終わっていない」状態で感想を公にすることに少し抵抗を覚えたからだ。(とは言いつつも友人には多少共有していたが)

この「繰り返しではない一続きの体験」という感覚も、実は今回新しく気づいたことだった。
演じる側にとってはもしかすると「100分の作品を14回」行っていた感覚だったかもしれないが、観る側にとっては1ヶ月間の中に「1400分の作品」があり、僕たち観客はその中から好きな時に好きな分だけ観ていたんだな、という感覚だ。

建物の2階で誰かが踊っている時、3階でも別の誰かが踊っている。
その二つのシーンを同時に見ることは誰にもできない。
そして、そのどちらーーあるいはそれ以外の何かーーを見るかは、見る人の自由であり、何を選んだとしてもその人固有の体験となる。
だから、このイマーシブシアターは「どこで、何を見るか」が自由なのだが、それと同じように「いつ、どれだけ見るか」もまた自由に選ぶことができる
そして、2階で誰かを見た人の体験と3階で誰かを見た人の体験に優劣がないように、100分間見た人と300分間見た人の体験の間にも、優劣はおろか互換性も存在しない。
ただ違いがあるだけだ

今回僕は初めて計8名ほどの友人を連れて観にいったのだか、一人を除いて皆100分間だけの体験だった。
その友人達の感想を聞いていると、僕のような数百分間体験した側の人間はこんな感覚を味わったよ、ということを共有したくなったので、今回はそれをメインに書いてみる。
ストーリーの説明や仕掛けられていたネタの解説はしないが、いくつか劇中の内容に言及していることもあるので、他人の視点の情報が必要ない、という人はその点了承願いたい。

十二人の怒れる男

いきなりイマーシブシアターですらない別の作品の紹介をするのだが、僕が今でも一番好きな映画として名前をあげる『十二人の怒れる男』という作品を、『RANDOM18』公演の合間にふとまたみたくなり、2週間ほど前に自宅で観た。

1950年代に作られた100分に満たないモノクロ映画だが、現代でも自信を持って傑作だとすすめることができる、素晴らしい映画だ。
父親殺しの容疑で逮捕された少年の刑事裁判において、市民の中から無作為に選ばれた12人の男達が陪審員となり、一つの狭い部屋に集まって評決のための最終議論を行う約1時間半が舞台となっている。
今回のイマーシブシアター『RANDOM18』と関係するところはあまりなく、設定上の共通点を無理にあげるとすれば、「たまたま偶然選ばれた複数人のキャラクター達が、ある限られた場所の中で物語を紡いでいく」という、それだけなら他にいくらでも作品を挙げられそうなものだ。

この映画を観終わると、僕はいつも12人の陪審員全員のことが好きになる。
タイトルにある通り12人全員が怒りに満ちて言い争いを行うため、場面によっては好意どころか嫌悪を抱くような人物もいる。
だがそうした人間達が持つ弱さや、最終的に正しい道を選択する姿を見せられれば、決して嫌いでいることはできない。

映画を観る前に知っておいた方がいいアメリカと日本の裁判制度の違いが2つある。
一つ目は、アメリカの刑事裁判では、一審で無罪となった場合、検察側には控訴する権利がなく、高裁や最高裁といった上訴審無しに無罪が確定し、その瞬間から被告は自由の身となること。
二つ目の違いは、アメリカの陪審員制度では、陪審員は量刑(懲役なら何年間にするか等の刑罰の中身)には関与せず有罪か無罪かだけを決め、有罪であった場合のみ裁判官が刑を決めるということだ。
ただこの映画では、陪審員の議論が始まる前、裁判官が「この殺人は第一級殺人であり、もし陪審員の評決が有罪であれば、被告が死刑となることは間違いない」と述べる。
つまり、陪審員達は、被告の少年を有罪として死刑にするのか、それとも無罪として野に放つのか、という究極の2択を選ぶことになる。
人を死刑にする、というのは背負いきれないほどとても重たいことだ。
だが一方で、もし少年を無罪にして、しかしやはり彼が殺人犯であり、自由の身となった後で他の誰かを殺すようなことが起きれば、陪審員として何の法的責任もないとはいえ、後悔の想いを抱くことは間違いないだろう。

議論部屋に集まった当初は皆、結論は最初から決まっているだろう、という緩い雰囲気でいるのだが、一人の陪審員が反対票を投じたことをきっかけに、映画のタイトルにある通り、全員が怒りで熱くなりながら議論が進んでいく。

この映画の話をするとき、最初にただ一人反対票を投じた陪審員が必ず話題にのぼる。
ヘンリー・フォンダという高明な俳優が演じ、彼の名前が一番最初にスクリーンに流れることから、いわばこの映画の主役ともみられる人物であり、「アメリカ映画100年のヒーローベスト100」にもランクインするほど人気を誇るキャラクターだ。
だが彼は決して、高潔な魂と不屈の精神を持ったヒーローではない。
むしろ彼は2回目の投票の際、12人の中で最も卑劣と言ってもいいような行動をとりそうになる。
「今回も自分以外の全員が有罪に投票するなら、自分も有罪に入れる」と言うのだ。

劇中で何度も述べられる通り、陪審員の評決は多数決ではない。12人全員の意見が一致しない限りは終わらない。
そして、陪審員が有罪を主張するには、有罪足り得る理由があるときにだけせよ、とも言われる。
その前提からすると、彼のこの行動は明らかに過っている。
「他の人がみんな有罪だというから有罪にしました」は決して許されないし、それによって自分だけは有罪=死刑を下す人間の責務から逃れようとしているとも言える
ある陪審員が彼のこの行動を指して「他の誰かに希望を託す勇気ある行動だ」と褒め称えるが、決してそんなことはない。むしろ勇気とは真逆の「弱さ」と言ってもいいだろう。

しかし、僕はその弱さを責めることはできない。自分が同じ立場であれば、きっと僕も彼と同じようなことをするだろうから。
たまたまなんとなく疑問を口にしてみたが、それでも他の11人全員が、自分に真っ向から反対している状況で、一体誰が同じ主張を続けることができるだろうか?もしそれができるとすれば、超人だけだ。
そう考えれば、この映画には決してヒーローなどいない。主人公もいない。
冒頭にただ一人無罪を訴えた陪審員8番を含め、12人すべての人間が、みな弱さや醜さを持った、どこにでもいる普通の人間だ

しかしそんな弱さを持った普通の人間達が、怒りに満ちた激論を繰り広げながらも、段々と意志を持った行動を取り始める。
自分と同じ意見に鞍替えしようとする陪審員にさえ「そんな理由なら変えるな」と怒鳴る人間も出てくる。
そして映画のラスト、一人の陪審員が怒号をあげた後、最後の最後に絞り出すセリフ。
あの言葉を口にするのに、いったいどれだけの勇気が必要だっただろうか?
何が彼にそれをさせたのだろうか?

普通の人間が困難に立ち向かうための勇気

『RANDOM18』では多くの登場人物が登場するため、100分間では全ての人物の全ての面を見ることはできない。
人々を率いること、医することを自らに課した者達が、常に冷静に振る舞い、正しく行動していたように見えた観客もいたかもしれない。
いつも明るく振る舞い、皆を優しく支える者達が、その持ち前の性格や声でシェルターに光を与え続けていたように見えた人もいるかもしれない。
彼らのそうした面だけを見かけた人は、彼らが「強さ」を持ったキャラクターに見えたかもしれない。
しかし、その姿を目撃した人もいるように、彼らもまた、『十二人の怒れる男』で最初に一人無罪を主張した男と同様、何かが違えば折れてしまったかもしれない弱さと脆さを持っていた
『RANDOM18』にも、ヒーローはいない。

神ならぬ身で、真実を見極めて人を裁かねばならないという困難。
たった18人で、自分達以外が滅んでしまったかもしれない世界を生き抜くという困難。

十二人の怒れる男』も『RANDOM18』も、その作品を表す言葉は無数にあるだろうが、僕は二つに「人間讃歌」を見た。
訓練されたジョジョファンであれば「人間讃歌」が何という言葉に続く枕詞か知っているだろう。
そう、「勇気の讃歌」だ。
勇気を持って正しい道を行くことができた者達の物語を、僕は見た。

「正しい」といっても、それは困難に打ち勝った、という意味ではない。
殺人事件の本当の真実を見つけ出すことは誰にもできない。
だから、下した評決の結果が正しかったかどうかは誰にもわからない。
自らの行動の結果自体とは無関係に、進もうとする意志に正しさがある。
『RANDOM18』でも、一見向こう見ずに思える行動をとった者達が、仮に自らの命を失うことになっていたとしても、その正しさは変わらなかっただろう。

何が正しいかを判断することは難しいが、どちらの劇中にも微かに見える一つの指針がある。
自分に希望をゆだねた親、自分の想いを託す息子、そうした人達が、自分のその行動を誇りに思ってくれる、あるいはそれが無理だとしても、少なくとも自分の肩に手を当てて「よく頑張ったね」と言ってくれる、そう思ってくれる「はずだ」と自分で確信できる行動をとること。そのために一歩だけ前に足を進めること。
僕はどの登場人物の家族でもなんでもないが、彼らの行動に対して「よくやった」と言いたくなる。そう描かれている。

人との関わりによって生まれる力

だが、彼らはなぜその勇気を持つことができたのだろうか?

身も蓋もない言い方になるが、それは「たまたま」だと思う。
たまたま無作為に集められた人間達が、ほんのちょっとしたことで相互作用を重ねていく。
きっかけを生む行動は、本当になんともない些細な関わりだったりする。

しかし、彼らが一人きりだったならば、そのきっかけは生まれていなかったはずだ。
あの12人でなければ、あの18人でなければ。
彼らが互いに関わり合っていなければ。
きっと結末は大きく違っていただろう。
たまたまではあるが、そこには必ず人と人との関わりが必要だった
そしてまた、生まれている「人との関わり」は登場人物間のやりとりだけでない。
その場にいない誰かから送られたメッセージ。
遠い過去から受け継いだ祈り。
そして未来からの想い。
そうした時間と空間を超えた場所からの影響までも受け、意志を持った行動が取られたのだ。

貴方も影響しあっていた

ここからさらに妄想が走るが、もし『RANDOM18』を観た「貴方」もその影響の一因だと言ったらどう思うだろうか?
もしも、貴方が観ていたからこそ、彼らがああした行動をとることができた、と言ったら。

見ている観客が一人もいない場所でも、彼らがたった一人、まったく同じように踊っていることを知っている。
だから僕たち観客が、彼らのストーリーに影響を与えることはないはずだ。
だが劇中でも見たように、登場人物達には、過去からのメッセージだけでなく、遥か遠い未来からの想いすらも届いたのだ。
時空を超えられるならば、次元だって超えていいはずだ。

『RANDOM18』を観た人は誰だって、そのダンスに心を奪われただろう。
もし僕たちがあの場所で見ていたということが、僕たちが受け取っている感動の1万分の1程度であっても、「踊っているその人」に対して何らかの影響を与えられていたとしたら

前回の記事でも書いたように、「踊っているその人」はリアルの世界のダンサーであると同時に、フィクションの世界のキャラクターでもある
ダンサーへと届く僕たちの気持ちの一部のさらに1万分の1でも、ダンサーの体を通してフィクションの世界のキャラクターへと伝わったとしたら。

あの日、あの時間に、「たまたま」彼らを観に行った貴方が、たまたまあの場面にいたからこそ、あの物語になった。
ランダムに選ばれたのは「彼ら」ではなく「貴方」。
そんな風に空想したら、これまで以上により楽しく感じられないだろうか。

そして最後に

イマーシブシアターでは登場人物の背中を見ることが多い。
ずっと見ているその時に、その背中を押せたら、触れられたら、と思ったことがないだろうか?
そしてもし、貴方が彼らの背中を押したのだとしたら、いったい彼らが貴方の背中を「見ていない」などということがあり得るだろうか?
人との関わりが片側からだけの作用であることはない。いつだって相互作用だ。
もしそうであるならば、彼らに背中を押された貴方は、どんな勇気を得て、どんな意志のもと、何をするだろう?

random18