変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

食事の幸せと敬意ある場所

好きな飲食店がある。
住んでいる所から歩いていける距離に古くからある、一番安いメニューは500円のラーメンで、餃子やチャーハンがあって、定食はどれも千円以内で食べられる、カウンターだけで10席程、目の前で料理が作られている、いわゆる街中華と呼ばれるような料理店だ。

早い時間からいつも近所のお客さんが並んでいる人気のお店で、10年ほど前に今の街に引っ越してきてから、今もたまに通っている。
メニューはいくつかあるのだが、いつも決まった定食を頼んでいて、たぶん店に入ってから20分もかからずにそれを食べ終えて退店している。

はじめにそのお店に通うようになったのは、何よりそこで食べる食事が美味しいかったからだ。
もちろん、人には好みがあるだろうから、全ての人にとって美味しいメニューだとは言わないが、通っている常連のお客さん達は皆そこの味が好きなはずだ。
だが、僕がその店を好きな理由は、単なる料理の内容だけではない。
20分に満たない時間しか滞在しないのだが、食事を終えてお店を出る時、いつも心から満足しているのだ。

外で食事をするとき、単に空腹を満たすエネルギー補給の場であると考える人もいるだろうし、常にそうではないにしろ、そういう外食をする人もいるだろう。
僕は比較的、外での食事の際は、一人であってもその時間を幸せに感じることができればいいな、と思うことが多く、それを基準にお店を選んでいる。

僕が食事で幸せを感じるのは、もちろん料理それ自体が美味しいに越したことはないが、それ以外の要素による影響の方が大きい。
人と一緒に食べるのであれば、相手が好きな人で「美味しい美味しい」と笑顔で楽しんでいると、その料理の内容がどんなものであっても、大抵は幸せな時間になる。
一人であれば、お店の雰囲気やお店の人の振る舞いによる影響の比重も増す。漫画『孤独のグルメ』の主人公ではないが、どれだけ美味しい料理を食べていても、怒鳴り声が飛んでいる中で幸せを感じることができる人は少ないだろう。

僕が好きなこの街中華のお店は、お店の人たちがいつ誰に対しても常に敬語で話している。
直接聞いたわけではないが、おそらく家族経営で、料理を作っているのはお父さんと息子さん、給仕は配偶者の方、といった形だ。
だが例え家族間であっても、彼らはお客さんの前では常に敬語を使っている。
料理を作る際、お父さんから息子さんに何かを頼む際にも、息子さんからお父さんに何かを伝える際も、「○○お願いします」と非常に丁寧に話すし、相手が配偶者であっても同じだ。
また、古くからの地元の店なので、当然常連さんがいて、おそらく友人と言っても差し支えないような間柄だろうお客さんが瓶ビールを注文した際に、「親父さんも一杯やってよ」と勧めることもあるのだが、その際も決して友達口調では返さず、「ありがとうございます」とコップをもう一つ出してきて一口口をつける。
家族連れでのお客さんも多く、小さなお子さんもいるが、どれだけ小さな子であろうとも、大人に対する振る舞いと全く変わらず、丁寧に礼を言う。

さすがにプライベートで話す際は違うだろうと思うのだが、お店ではそのように振る舞おうと決めて、それを続けているのだろう。
そうしている理由は彼らに直接聞かなければ分からないことだが、僕はそこにお客さんに対する敬意と意志を感じる
お店に食事にくる人たちが、より満足して帰ってくれることを願い、そのためにそうした方がよいと思うことを、意識して、継続している。
だからこそ僕はこの店が好きで、ここから帰る時にいつも満足しているのだろうと思う。

もちろん、他のお店も全部同じようにすべきだとは思わない。
店員同士で気さくに話し、客ともフランクに会話するお店で好きなところもあるし、そうしたお店に変わって欲しいとも思わない。
いろんな形のお店があるべきだと思うから。

ただ形は違えど、「自分もこうありたい」と思えるようなものに、長く・たくさん触れて生きていくことができればいいな、と思う。