変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

意味の存在に気づく–– ego:pression イマーシブシアター『リメンバー・ユー』感想

以前ブログに書いた ego:pression のイマーシブシアター『リメンバー・ユー』を千秋楽まで観終えたので、改めてその感想をまとめることにした。

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ego:pression「リメンバー・ユー」

前回の記事を書いたときは、まだ完成前のプレ公演を1回観ただけの状態だったので、ego:pression という団体のイマーシブシアターに対する思いを述べただけだったのだが、正式な上演を複数回観て、恐らく1度しか観なかった人では感じられなかっただろう体験も得られたので、前回の自分自身の言葉「感じたことを言葉にしてもらいたい」に従って、感想を書く。

なお、公演の具体的な内容は特に説明しない。
ネタバレが、ということもあるが、例えば美術館で見た画について「XY座標〇〇位置は、CMYKカラー××色で」と書いたところで、それが完璧に正しい情報だったとしても、何も伝わることがないだろうからだ。

体験し、感じたもの

映画が好きで、好きな作品を見直すことも多いのだが、あるひとつの作品をこれだけの回数、しかもこれだけの短い間に体験したのは初めてだった。
しかし、その複数回の観劇の中で、一度たりとも「ここまでたくさん来る必要はなかったな」と思ったことはなかったし、同じ体験をすることもなかった。
イマーシブシアターが、観客自身が物語を見つけるスタイルの舞台である、ということももちろんその理由だろう。しかし、それだけでなく、登場人物たちと同じ空間にいること・その演出の形・そして演者達の演技によって、そこにいる人々を愛おしく感じられるようになったことが大きかった。

だが最後の千秋楽、ついに単なる感動だけではなく、「新しい視点」––––イマーシブシアターを観るための視点ではなく、生き方に関する視点––––を得ることができた。
その体験を順番に記す。

初回:物語に心を打たれる

前作・前々作を体験してイマーシブシアターにも慣れているので、初回から遠慮なくグイグイ近づいて堪能していた。
途中よく分からないことがあったり、今これは何を見ているのだろう?と思う時もあったが、きっと彼らなら、必ず最後には僕の心を素晴らしい場所に連れて行ってくれるはずだ、という半ば信仰に近い信頼を置いていたので、そうした道中の疑問は何もストレスにならず、身を任せることができた。

前の記事にも書いたように、ダンサーの本気のパフォーマンスを間近で独り占めする感覚に興奮を覚えながら、終盤、舞台の中で演じられる事柄に「え?そういうことなの!?」という驚きを感じて肌が粟立ちつつ、さらにそこからクライマックス、物語上の感動的なシーンに遭遇し涙を流す。
演者のダンスと演技が物語の情報を補足してくれるのだが、例えそれがなかったとしても間違いなく心が震えるパフォーマンスに、やっぱり来てよかった、という幸せな気持ちになった。

そして、帰宅しながら「あれってどういうことなのかな?これってそういうことなのかな?」という、イマーシブシアター鑑賞特有の疑問が浮かび上がり、早くもう一度観たくなる。
おそらく初回こういう体験だった人もいると思う。一番心を打たれたのは、その物語とパフォーマンスだった。

2回目:世界に感動する

チケットが空いていたので、既に複数チケットを確保しているにもかかわらず、図々しく当初の予定よりさらに「追い」チケットをして2日目に参加する。
気になっていたが初回にあまり見られなかった演者を追いかけながら、前回「こうかも」と思ったことの「答え合わせ」をしつつ、改めて初回に見過ごしていた様々な仕掛や伏線に気づき、個人の物語というよりは、今回の舞台の大きな構造を理解し、その世界が深く考えられて演出されていることに感動する。

一度しか観なかった人でも、一緒に行った友人と何を見たかを話し合うことで、別の視点を借りて自分が見られなかったことを知り、同じような体験ができたかもしれない。パズルの全てのピースがはまったわけではないにしろ、多くが埋まって全体像が見える、ある種の「謎解き」のような楽しさだ。
一人の人間にずっと集中していたため、ダンスも思い切り堪能できて、やっぱり追加してよかったな、と再び幸せな気持ちになる。

3回目〜: 人を愛おしく思う

全体の構造は理解できたが、10人もいる登場人物全ての物語は当然ながら追い切れていないので、3回目以降はまだよく知らないキャラクターを追いかけ、「どうしてああなったんだろうな」「あの時何をしていたんだろうな」といったことを知ろうとしていた。
そうしながら、個々のダンサーのパフォーマンスを味わえればそれでいいな、と思っていたのだが、回数を重ねるにつれて自分の心に全く予期していなかった想いが浮かんでいくことに気づいた。

ダンサーのパフォーマンスを味わうことを最大の目的としつつも、とはいえそれまでは、脳のリソースのある程度を、話を追って提示されているものの意味を読み取ることに割いていたのだが、流石に3回目以降ともなるとそういったことからも解放され、各キャラクターそのものに集中して見られるようになった。
また、それまでの観劇で、見ているキャラクターの過去に何があって、これから何が起きるか、ということを知っている状態で眺めていると、それまではなんとも思わなかった一つ一つの仕草がとても大切なものに思えてきた。
初回に「今自分は何を見ているんだろう」と思っていたシーンでも、自分の頭の中で登場人物の心が補完されて、それだけでとても感動的なシーンに見えてきたのだ。
目の前にいる登場人物が机を優しく撫でる姿だけで、彼女の人生にあったそれまでを想像し、彼女が何を大切に想っているかが伝わってくる。遊びながら楽しそうに踊っている姿を見ながら、彼がこれから体験することに思いを馳せ、そのかけがえの無さに貫かれる。

そうした体験を重ねると同時に、見ている登場人物達が本当に愛おしく大切な存在に感じられるようになっていった。
実物の人間が手で触れられる距離で演じている力によって、登場人物に向かって「僕は貴方を知っているよ」「貴方を見ているよ」と言葉をかけたくなるような親近感が生まれ、好きになれた。

そして、彼らを好きになるのと同時に、現実の世界で自分を取り巻く人々も同じように大切なのでは、と思うようになった。
僕にも離れて暮らす家族がいて、そこにいることが当たり前だと思っていたけれど、それは決して当たり前のことではない、ということに気付かされ、会いに行こうという気持ちになる。
街ですれ違う名前も知らない人々にも、この舞台の登場人物達と同じように物語があるんだ、ということに気づき、少しだけ優しく接することができるようになる。
「その歳になってようやく気づいたの?」と突っ込まれそうな話だが、あまりにも日常的なことは、あまりにも当たり前過ぎて、どうしても意識的に生きることが難しい。それを思い出せたことの幸せを噛み締めていた。

最終回:他者の「意味」に気づく

予定していた全ての回を観終えて、なぜかふと、業田良家の4コマ漫画『自虐の詩』の存在を思い出した。
自虐の詩』は多くの人から傑作と呼ばれ「泣ける4コマ漫画」としても有名な作品で、ご存知の方も多いかもしれない。
以前はよく読み返していたのだが、手元からなくなって10年以上経過していて、良い作品だったということ以外、ストーリーから中身から、まるっきり全部を忘れていた(あの熊本さんのことすら覚えていなかった!)のだが、再び読みたくなって電子版を購入した。
読み返して、やっぱり良いな、と思ったのだが、この『リメンバー・ユー』と『自虐の詩』のストーリーに似ている部分があるわけではなく、どうして思い出したのかがすぐには分からなかった。
共通点を上げるとすれば、どちらも涙を流したことと、『自虐の詩』もまた、『リメンバー・ユー』と同じく何度繰り返し読んでも感動が色褪せないことくらいだ。

だが最後まで読んで、有名なモノローグを噛み締めながら、千秋楽に体験したことを思い出していた。

千秋楽、僕はある一人の人物を最初から最後までずっと追いかけていたのだが、その途中、場所を移動するその人物の後を追っていた際、2日目の公演で見ていた別の人物が一人で踊っているシーンとすれ違った。そのシーンももちろん過去に観ていたので、その彼女を横目に見ながら「あぁ、あのシーンなんだな」と思い出すことができた。
それは彼女の魅力を表現する場面ではあるが、何かの重要な伏線になっているわけではないし、それ単体でドラマチックな物語になっているわけでもない、なんていうことのないシーンだった。
その時までは、そうしたなんでもない日常のシーンを「直接」観て楽しんでいたのだが、その時は別の人物を追いかけていたために、頭の中に彼女がいるにもかかわらず、観てはいない、という体験になった。
そして、彼女は、例え彼女を見る観客が誰もいなかったとしても、一人で踊り続けていただろう、ということも分かっていた。

その瞬間、自分が今回の公演で気づいたと思っていたことに不足があったことに気づいた。

自虐の詩』はこのようなモノローグで閉じる。

幸や不幸はもういい
どちらにも等しく価値がある
人生には明らかに
意味がある

以前の僕は、「自分自身の」人生に意味がある、という捉え方をしていた。
「幸や不幸という物語」があるから、それらに価値があると思っていた。
自分の身に起きることすべてを、厳粛に受け止めて生きていくべきなのだと。
だが、幸や不幸だけでなく、「そのどちらでもないもの」にも価値はあるのだ。
例えその人生に劇的な物語がなかったとしても、その生には意味がある。
街ですれ違う人を見つめた時、その人に物語なんかがなくても、その人にも、「他者の」人生にも意味がある。
僕の頭の中で一人楽しく踊る彼女が無言で語りかける「私はここにいるよ」という言葉に、それを伝えられた気がした。

最後に

優れた作品は鑑賞者に影響を与え、その行動を変容させる。とはいえ、単なる感動だけではその変容は長続きせず、ほとんどはすぐに元の生活に飲まれていく。
『リメンバー・ユー』によって僕の中に生まれた変化はたくさんある。
上で書いたように、家族に会いに行ったし、見知らぬ人にも少しは優しくなれた気がする。
今も音楽を聴くと、それが公演で使われた曲ではなくとも、頭の中で彼らが踊る姿が思い浮かび、温かい気持ちになる。
もちろん、これらも時間が経てば薄れていくだろう。
だが、それでも、一過的な感動だけでない、今回の体験によって得られた大切な視点は、これからも僕を支えてくれるだろう。

人生をなにものとも比較しないことと同じように、この作品も、彼ら自身の前作や他のアーティストらの作品と比べて評するようなものではない。
だから、優れているという意味を帯びる「傑作」という言葉で表すべきではないかもしれない。
敢えて短く言葉にするとすれば、ただ純粋に、意味がある
僕にとってはそういう作品だった。
感謝を。