変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

インターネットの治安は向上するか

「インターネットの治安が今後向上するか」という問いに感覚だけで答えると、僕は「向上する」と返す。

「治安」という表現が意味するものはだいぶ広いが、例えば、不正アクセスコンピュータウィルスの被害から、ネット上での誹謗中傷や虚偽情報による健康被害、対人オンラインゲームで遭遇する「嫌な」体験、といったものをなんとなくイメージしている。
これらがより良くなるはずだ、と考える第一の理由は、インターネットに限らず人類社会の治安は基本的に向上してきたから、というものだ。その傾向に照らして、短期的な上下はあれど、時間と共にインターネットでの治安も向上すると思っている。

だが理由はもう一つあり、これまでの「平和化」の理由が、科学技術の進歩によってもたらされてきた「豊かさ」であったとして、それとは別の形で、直接的に科学技術が後押しして「平和」になるのではないか、と思っていることがある。

話が飛ぶが、自動車の自動運転技術が進歩している。
自動車が提供する体験を置き換える何かがこの世に生まれれば消え去る可能性もあるが、仮に自動車というものが存続するとして、おそらく今日この世界に誕生している子供たちが大人になる頃には、自らの手足を使って直接自動車を操作する、ということは、音楽をCDで購入して聴く、という体験と同じくらい過去のことになっているだろう。
(どうでもいいが完全自動化されると「”自動”自動車」と呼ばれるのだろうか?)
そうした自動車に乗っている場合、「運転」席に座っている人間であっても、おそらく交通規則に「違反」することはできないだろう。なぜなら自動車は法規を守るAIによってコントロールされていて、それを上書きするような操作をするハードルはかなり高いはずだからだ。

ところで今我々は、インターネットにアクセスする際、デバイスを介して「手動」で操作している。
SNSに投稿する内容やネットゲームでとるアクションは、全て自ら手打ちしたものだ。
それは逆に言うと、自ら取った行動が直接的に外の世界と繋がっている、という意味でもある。
だが、実際には我々の行動はデバイスを通してネットへと流れていて、「入力」から「出力」までの間に何らかの制約や変更が加わっても良いはずだ。
”自動”自動車が「目的地に着く」ための指示を受けて、そのための最適な動きが行われるのと似たように、間に存在するモノがより最適なアレンジを加えてくれてもいいはずだ。

しかし、今主流のデバイスであるスマートフォンは、実際のところ期待するほど「スマート」ではない。
貴方が持っている最新のiPhoneであっても、Twitterへのうかつな投稿を決して止めてはくれず、その投稿が大炎上して巨大な損害を被ることになったとしても、それは自分の責とされる。
おそらく、自動運転が進んだ自動車が当たり前の世界では、「アクセルを踏んだら人を轢き殺せる」という車は、明らかに異常な欠陥を持ったものと見做されるだろう。
それと同様に、明らかに法に違反するような誹謗中傷の投稿を止めてくれない今のスマホは、将来の進化したデバイスと比較したら、圧倒的に無能な機械と見做されるのではないか。

だが、もしスマホが賢くなって、そのような馬鹿げた行動を諌めてくれるようになったとして、こうした機械による「アシスト」は本当に人類にとって幸せなものなのだろうか?
事故を起こさないようにするために自動車を「自由に」は操作できなくなる、という点に反対する人はそこまで多くないかもしれないが、今まで自分が日常生活で犯していた軽い条例違反「全て」が不可能になる、は言い過ぎだとしても、強い意図を持って高いコストを支払わねばできなくなる、という事実を見せられた際、それに反発を覚える人はいるのではないだろうか。

おそらくSF作品などで古くから問いかけられてきたテーマだと思うが、科学技術の進歩によって人類がとることのできる行動の範囲が広がりながらも、同時にある視点では、人類の「行動の振れ幅」が減っているとも見て取れる。
もちろん、そうした「制約」の元になっているものは、理想的には民主的手続きのもとで定められた、他者の自由と権利を守るための法であり、「正しく」運用されていれば人類はより幸福になっているのだろう。
だがそれでも、どうしてもこうした「ナッジ(nudge)」、すなわち自分以外の意思持つ存在が意図したコントロール圧力のことが、僕は気になってしまう。

「自由とは何か」や「なぜヒトは自由を欲するのか」といった問いが関連しているのだろうと思うので、そうしたことを勉強したい。