変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

寛容と無関心、他者、許し、フェルナンド・アラムブル『祖国』の雑感

自分とは異なる意見や価値観を単純に拒絶しないことを寛容と表現するが、これと似た振る舞いに無関心がある。関心が無ければ拒絶もしない、という寸法だ。
誰の説明だったかは忘れたが、寛容と無関心の違いは何か、という問いへの回答の一つに、「自らへの不寛容を許容するかどうかである」というものがあった。
すなわち、寛容さは寛容への不寛容を許容せず、無関心は自分自身の無関心さへの不寛容を拒絶しない

具体的な例を出すと、自分自身が異性愛者であろうと同性愛者であろうとそれ以外であろうと、人々の性的指向に対して「寛容」である人間は同性愛に対する攻撃を許容しないが、問題に対して「無関心」な者はそのような攻撃自体も一つの意見だと見過ごす。

この説について僕は、少し寛容さの価値に重きを置いた説明だな、と思ったのだが、それ以上に、これは単に挙動の説明であって、なぜそうした違いが生まれるのかという説明がないな、と思っていた。

そんな中最近、これは「問題に対して」寛容/無関心であるということよりも、もっと根っこのところで、その問題の「原因に対して」どう言う認識でいるのかが違っているのではないかと思うようになった。

受け入れがたいものの原因による違い

現代の平和な日本において、家族や愛する人といった、大切な人間の命を「誰か」に奪われる、ということを経験する人は稀だ。
だが、ヒトは必ず死ぬのだから「何か」には奪われる。
その理由で一番多いものは病だろうし、事故だったり、老衰だったり色々とあるだろう。ただその死は基本的に、意思を持った存在によって引き起こされることではなく、いわば自然によって命が奪われる。

どちらであろうとも、失われたことによる悲しみの大きさは変わらないだろう。
だが、それ以外の感情はどうだろうか。
怒りや憎しみ、納得できない、許せないといった気持ちは、明らかに意思を持った存在、具体的には自分以外の人間によって引き起こされた場合に強く感じるだろう。
対して、意思を持っていないものによって被る不利益に怒りを覚えるケースは少ない。
病気で家族を亡くしたことがあるが、僕自身は少なくともそれで怒りを覚えたりはしなかったし、おそらくそれが自然災害であっても同じではないかと思う。
なぜ、不幸の原因が意思を持った存在なのかどうかによって、受けるショックが違うのだろうか

他者をどう見做すかによる物事の捉え方の違い

話が戻るが、僕は自分のことを比較的受け入れられる物事が広い方だと思っているが、その自身の物事に対するスタンスはどちらかというと「無関心」にあたる方だと思っている。
ただ、何に関心を持って「いない」かというと、それはその問題、すなわち自分と異なる意見・価値観をどうでもいいと思っているというよりは、その問題を提示する人の意思の存在をどうでもいいと思っている方が近い。

例えば、自分と異なる宗教観を持った人がどのように振る舞おうと、その人物を意思を持った人間と看做さず、チンパンジーのような人間以外の動物、あるいはビデオゲームにおけるNPCがそう振る舞ったのと同じように受け取れば、彼らに対して拒絶感は生まれず、その振る舞いを自然現象として捉えることができる

仏教でいう悟りはこれとは違うだろうが、少なくとも物事の受け止め方としては優秀なストレスコントロール方法であり、何かにイライラさせられることも減るし、若い頃にこの方法を学習していればもっと楽に生きて来られたのに、と思っていた。

特にこのことを意識するようになった際は、外部から刺激を受けてそれに直接的に反応するだけのいわば「動物的」な振る舞いを脱して、より「人間的」な高尚な生き方ができるようになったのだ、と無邪気に喜んでいた頃もあった。

ただ、人と話をしたり作品に触れたりする中で、このような「自分以外の存在を認めないことにより、自らに降りかかる物事を評価から切り離し、ただそのままの事象として観察する」ことによって、何も感じずにいるという振る舞いは、確かに「動物」ではないかもしれないが、「人間」というよりはむしろ「植物」であって、ちっとも高尚ではないのでは?と思うようになった。

『祖国』に見た人間らしさ

今回この記事を書くきっかけになったものが、フェルナンド・アラムブルの『祖国』だ。

小松原織香のこの記事で興味を持って手に取った。
(余談だがこの記事から始まる一連の3記事はとても面白かった。修復的正義についての著作も読もうと思う。)

四半世紀前のバスクのとある村を舞台に、バスク独立派組織のETAによって殺されたある男と、その妻と子供達、その男の親友家族でありながらも殺した側のETAの人間を息子に持つ夫婦と姉弟達、2つ家族の9人それぞれの視点を描いた作品だ。
話自体はフィクションだが、バスク独立を謳うETAは実在の組織であり、実際に数百人の人間がそのテロの犠牲となっており、作者のアラムブルはバスクで生まれた人物だ。
訳書は上下巻に分かれており、上巻はかなりゆっくり読んでいたのだが、下巻に入ってから引き込まれて一気に読んでしまった。
登場人物9人は皆全く違う人間であり、当然自分とも全く異なる価値観を持った人間だが、それぞれの視点で語られる文章を読みながらその人物達のことを「知る」につれ、全員に深い親近感のような感情をいだいていく。

何かの掛け違いで死んでいく男。
夫が殺された後何十年も墓に通う妻。
母を守るという自らの約束を思う息子。
父の死から逃げようとする娘。
親友と言葉を交わすことができなくなった男。
息子の投獄に怒りを持ち続ける母。
体の自由を失いながらもはっきりと前に進む姉。
引き返せたかもしれないテロリスト。
家族に認められることを望む息子。

ego:pression のイマーシブシアターを繰り返し観た時のように、登場人物全員の心の動きが、小説を読んでいる自分の心に触れてくる作品だった。

劇中、夫を殺された妻ビジョリは、ETAのメンバーであり殺害に関与して投獄されている、亡き夫の親友の息子ホシェマリに手紙を書く。

憎しみはない。唯一の望みは、あなたから謝罪をもらい、あなたを許し、心の平安を得ること。

いくつかの疑問がある。

すでに憎しみもなく、自ら許そうと思っている状態は、「すでに許している」ことと何が違うのだろうか
なぜ、ビジョリはホシェマリに対して謝罪を求めたのだろうか。
引き金を引いた犯人かどうかすら脇に置き、そもそも実質的な殺害者は指示をしたETAの幹部であると言ってもいいはずだが、なぜ、殺害の真実に対する求めではなく、ホシェマリに謝罪を?
もし僕がビジョリと同じ立場だったら、心の平安を得るためにどうしただろうか。
大切な人が熊に殺されたと思う?
そうすれば、悲しみ以外は感じずに平穏でいられるだろうか。

もし自分がホシェマリだったらどうだろうか。
誰かを殺し、誰かを傷付けてしまったとしたら?
その時も、その「人」が「ヒト」ではない、と思い込むだろうか。
死んだ人間も、傷ついた人間も、ゲーム序盤で同じセリフを繰り返すだけのNPCだと見做せば、苦痛を感じずに済むだろうか。

他者への尊重と自己の肯定

この作品では、明らかに他者への尊重が描かれていた。
ビジョリは自分のためだけでなく、「ホシェマリ自身のために」謝罪が必要だと思っていた。
ホシェマリは謝罪によって自分が救われる可能性を感じていただろうが、それでも「ビジョリのために」謝罪が必要だと思っていた。
一見奇妙だが、相手の存在を認め、尊重することによってしか、自分自身を肯定することができないと知っていたのではないだろうか。
その象徴が、美しく、悲しく、抱きしめたくなるような気持ちにさせる何かが描かれたラストシーンだと思う。

そう考えると、僕がやろうとしていた自己コントロールは、自分自身に何の変化ももたらさず、木石のごとき生とも言えない時を送るだけのつまらないものだ。
例え苦痛が増えるのだとしても、自分自身の意思の存在を信じるために、他者を尊重していくしかない。