変化の種

Shoichi Uchinamiのブログ

インターネットの治安は向上するか

「インターネットの治安が今後向上するか」という問いに感覚だけで答えると、僕は「向上する」と返す。

「治安」という表現が意味するものはだいぶ広いが、例えば、不正アクセスコンピュータウィルスの被害から、ネット上での誹謗中傷や虚偽情報による健康被害、対人オンラインゲームで遭遇する「嫌な」体験、といったものをなんとなくイメージしている。
これらがより良くなるはずだ、と考える第一の理由は、インターネットに限らず人類社会の治安は基本的に向上してきたから、というものだ。その傾向に照らして、短期的な上下はあれど、時間と共にインターネットでの治安も向上すると思っている。

だが理由はもう一つあり、これまでの「平和化」の理由が、科学技術の進歩によってもたらされてきた「豊かさ」であったとして、それとは別の形で、直接的に科学技術が後押しして「平和」になるのではないか、と思っていることがある。

話が飛ぶが、自動車の自動運転技術が進歩している。
自動車が提供する体験を置き換える何かがこの世に生まれれば消え去る可能性もあるが、仮に自動車というものが存続するとして、おそらく今日この世界に誕生している子供たちが大人になる頃には、自らの手足を使って直接自動車を操作する、ということは、音楽をCDで購入して聴く、という体験と同じくらい過去のことになっているだろう。
(どうでもいいが完全自動化されると「”自動”自動車」と呼ばれるのだろうか?)
そうした自動車に乗っている場合、「運転」席に座っている人間であっても、おそらく交通規則に「違反」することはできないだろう。なぜなら自動車は法規を守るAIによってコントロールされていて、それを上書きするような操作をするハードルはかなり高いはずだからだ。

ところで今我々は、インターネットにアクセスする際、デバイスを介して「手動」で操作している。
SNSに投稿する内容やネットゲームでとるアクションは、全て自ら手打ちしたものだ。
それは逆に言うと、自ら取った行動が直接的に外の世界と繋がっている、という意味でもある。
だが、実際には我々の行動はデバイスを通してネットへと流れていて、「入力」から「出力」までの間に何らかの制約や変更が加わっても良いはずだ。
”自動”自動車が「目的地に着く」ための指示を受けて、そのための最適な動きが行われるのと似たように、間に存在するモノがより最適なアレンジを加えてくれてもいいはずだ。

しかし、今主流のデバイスであるスマートフォンは、実際のところ期待するほど「スマート」ではない。
貴方が持っている最新のiPhoneであっても、Twitterへのうかつな投稿を決して止めてはくれず、その投稿が大炎上して巨大な損害を被ることになったとしても、それは自分の責とされる。
おそらく、自動運転が進んだ自動車が当たり前の世界では、「アクセルを踏んだら人を轢き殺せる」という車は、明らかに異常な欠陥を持ったものと見做されるだろう。
それと同様に、明らかに法に違反するような誹謗中傷の投稿を止めてくれない今のスマホは、将来の進化したデバイスと比較したら、圧倒的に無能な機械と見做されるのではないか。

だが、もしスマホが賢くなって、そのような馬鹿げた行動を諌めてくれるようになったとして、こうした機械による「アシスト」は本当に人類にとって幸せなものなのだろうか?
事故を起こさないようにするために自動車を「自由に」は操作できなくなる、という点に反対する人はそこまで多くないかもしれないが、今まで自分が日常生活で犯していた軽い条例違反「全て」が不可能になる、は言い過ぎだとしても、強い意図を持って高いコストを支払わねばできなくなる、という事実を見せられた際、それに反発を覚える人はいるのではないだろうか。

おそらくSF作品などで古くから問いかけられてきたテーマだと思うが、科学技術の進歩によって人類がとることのできる行動の範囲が広がりながらも、同時にある視点では、人類の「行動の振れ幅」が減っているとも見て取れる。
もちろん、そうした「制約」の元になっているものは、理想的には民主的手続きのもとで定められた、他者の自由と権利を守るための法であり、「正しく」運用されていれば人類はより幸福になっているのだろう。
だがそれでも、どうしてもこうした「ナッジ(nudge)」、すなわち自分以外の意思持つ存在が意図したコントロール圧力のことが、僕は気になってしまう。

「自由とは何か」や「なぜヒトは自由を欲するのか」といった問いが関連しているのだろうと思うので、そうしたことを勉強したい。

食事の幸せと敬意ある場所

好きな飲食店がある。
住んでいる所から歩いていける距離に古くからある、一番安いメニューは500円のラーメンで、餃子やチャーハンがあって、定食はどれも千円以内で食べられる、カウンターだけで10席程、目の前で料理が作られている、いわゆる街中華と呼ばれるような料理店だ。

早い時間からいつも近所のお客さんが並んでいる人気のお店で、10年ほど前に今の街に引っ越してきてから、今もたまに通っている。
メニューはいくつかあるのだが、いつも決まった定食を頼んでいて、たぶん店に入ってから20分もかからずにそれを食べ終えて退店している。

はじめにそのお店に通うようになったのは、何よりそこで食べる食事が美味しいかったからだ。
もちろん、人には好みがあるだろうから、全ての人にとって美味しいメニューだとは言わないが、通っている常連のお客さん達は皆そこの味が好きなはずだ。
だが、僕がその店を好きな理由は、単なる料理の内容だけではない。
20分に満たない時間しか滞在しないのだが、食事を終えてお店を出る時、いつも心から満足しているのだ。

外で食事をするとき、単に空腹を満たすエネルギー補給の場であると考える人もいるだろうし、常にそうではないにしろ、そういう外食をする人もいるだろう。
僕は比較的、外での食事の際は、一人であってもその時間を幸せに感じることができればいいな、と思うことが多く、それを基準にお店を選んでいる。

僕が食事で幸せを感じるのは、もちろん料理それ自体が美味しいに越したことはないが、それ以外の要素による影響の方が大きい。
人と一緒に食べるのであれば、相手が好きな人で「美味しい美味しい」と笑顔で楽しんでいると、その料理の内容がどんなものであっても、大抵は幸せな時間になる。
一人であれば、お店の雰囲気やお店の人の振る舞いによる影響の比重も増す。漫画『孤独のグルメ』の主人公ではないが、どれだけ美味しい料理を食べていても、怒鳴り声が飛んでいる中で幸せを感じることができる人は少ないだろう。

僕が好きなこの街中華のお店は、お店の人たちがいつ誰に対しても常に敬語で話している。
直接聞いたわけではないが、おそらく家族経営で、料理を作っているのはお父さんと息子さん、給仕は配偶者の方、といった形だ。
だが例え家族間であっても、彼らはお客さんの前では常に敬語を使っている。
料理を作る際、お父さんから息子さんに何かを頼む際にも、息子さんからお父さんに何かを伝える際も、「○○お願いします」と非常に丁寧に話すし、相手が配偶者であっても同じだ。
また、古くからの地元の店なので、当然常連さんがいて、おそらく友人と言っても差し支えないような間柄だろうお客さんが瓶ビールを注文した際に、「親父さんも一杯やってよ」と勧めることもあるのだが、その際も決して友達口調では返さず、「ありがとうございます」とコップをもう一つ出してきて一口口をつける。
家族連れでのお客さんも多く、小さなお子さんもいるが、どれだけ小さな子であろうとも、大人に対する振る舞いと全く変わらず、丁寧に礼を言う。

さすがにプライベートで話す際は違うだろうと思うのだが、お店ではそのように振る舞おうと決めて、それを続けているのだろう。
そうしている理由は彼らに直接聞かなければ分からないことだが、僕はそこにお客さんに対する敬意と意志を感じる
お店に食事にくる人たちが、より満足して帰ってくれることを願い、そのためにそうした方がよいと思うことを、意識して、継続している。
だからこそ僕はこの店が好きで、ここから帰る時にいつも満足しているのだろうと思う。

もちろん、他のお店も全部同じようにすべきだとは思わない。
店員同士で気さくに話し、客ともフランクに会話するお店で好きなところもあるし、そうしたお店に変わって欲しいとも思わない。
いろんな形のお店があるべきだと思うから。

ただ形は違えど、「自分もこうありたい」と思えるようなものに、長く・たくさん触れて生きていくことができればいいな、と思う。

意識が高くない自然科学系の学生が持つスタートアップでのサービス作りの適正

昔の僕のような、自然科学系の学科(「物理学科」とか「化学化」とか「生物学科」とかそういうの)を専攻しながらなんとなく生きている未就業の学生に向けての誘いの言葉。

年を経ると患うという「若者にアドバイスしたい病」に、僕も漏れなくかかった記事であり、かつ自分にとって都合の良い方向へ他人をプッシュしようとする内容なので、よりタチが悪いかもしれない。
が、人間の相互作用というものはそういうものだと思うので、気にせず出すことにした。

いわゆる「意識高い」と表現される人を馬鹿にしているように見えるかもしれないが、そんな気は一切ない。
どころか、逆にそのように生きている人のことをリスペクトしている。自分の人生のテーマを「意識的に生きる」ことにしているので、そうしたことができる人達は素直に素晴らしいと思っているのだ。

ただ、そうした生き方ができるのは、生まれ持った遺伝子から、これまでの経験の内容や、現在の周りの環境まで、かなり「恵まれた」人だけに限られているとも思っていて、普通の人間はそうはできない。
僕もその例に漏れず意識の「なさ」には自信を持っており、非常に恵まれた縁と運を得ていながら、相当惰性のみで生きてきた
ただそんな人生だからこそ、「もしこういうことが先に分かっていたら、もっと早くこれが意識できるようになっていたかも」ということがあり、今回はその中でも、僕自身が大学で自然科学系の分野を出た後、スタートアップでソフトウェアエンジニアと呼ばれる人達と一緒に仕事をしてきた際に、この経験は役に立ったと思ったことや、自分と同じような自然科学系バックボーンの同僚から見出した共通点を書いてみた。

なお、少なくとも今回の記事では自らをエンジニアとは名乗らない。理由は、そもそも自分が取った学位は情報技術と全く関係がないため海外では普通はソフトウェアエンジニアとしては扱われないこと、情報技術に限らずどの分野においても工学の専門教育を受けたわけではないこと、および自分自身の最大の興味関心が「楽しくエンジニアリングし続けること」ではないこと、あたりだ。

届けたい想定読者としては、主に現在自然科学系の学科を専攻している大学生や大学院生を対象としている。
研究を続けようと思っている人もいれば、そこから離れてどこかで働こうと思っている人もいるだろう。
そうした人たちに向けて、「貴方はこういう特性をもっているから、こういうところでこういう活躍ができるかもしれない」と言うことを伝えたい
僕は直近はWeb系のスタートアップにいて、その文化が好きなので、貴方にもそうした分野へ行ってくれると嬉しいが、おそらくそれ以外の領域でも多少は流用できる内容になっているのではないかと思う。

なお、この記事の内容は、書いている僕一人の経験に基づいたものなので、他の世にある多くのエッセイ等を読む際と同様、「こうすればうまくいくのだ」という受け取り方をするのではなく、「こういうルートの人もいるんだ」という発見や「こういうやり方もあるんだ」というスキルの理解として読み取ってもらえたらと思う。
すなわち、具体的には、これから就職活動をやろうと考えている人が、志望動機や強み/弱みといった自己アピールの材料やハッタリを捻り出す際の手助けになればと考えている。

強みシリーズ

「粘り強いです」のようなその人個人の性格に根付くものではなく、また逆に「論理的思考ができます」のような広すぎる表現でもなく、ちょうどよさそうな自然科学系との関連をもった強みを2,3個上げてみよう。

数字のオーダーに強い

僕がいた物理学の分野ではよく使っていた言葉なのだが、もしかすると他の分野では馴染みのない表現かもしれない。
「数字のオーダーに強い」というのは、数字の規模、つまり十、百、千、万といったその数字のゼロの数(桁)がいくつか、ということに敏感である、という意味だ。100なのか200なのか300なのか、といった違いや、ましてや10と11の違いとかは気にしなくて良い。

自然科学の分野に長く身を置いて勉強や研究をしていた貴方は、サービスを作っていく上で、自分達が今興味の対象としているもの、例えばユーザー数であったり、アクセス数であったり、あるいは売上金額であったりといった数字について、常に勘が働いていて、「このシステムはこれくらいの負荷になるな」や「この単価であればこのコストに対してペイしそうだな」というようなことがスッと出せるようになる「筋肉」を持っている可能性がある。
成熟した企業で働く場合、売上金額を正しい数字の半分だと認識しているとまずいが、年成長100%を超えるようなスタートアップにおいては、今扱っている数字の最大桁が2なのか3なのかということは大抵どうでもいい。というのも、変化のスピードが早いため、そこを気にしている間に結局桁が変わるからだ。

なぜこのような「筋肉」がついているかというと、僕個人の経験を例えに出すと、学生時代、指導教官から「今関心の対象となっている物理のエネルギースケールはいくらか」をくどいほど聞かれ続けていたので、計量的なものを相手にする際は常に桁が幾らかを考えるのが癖になっていた
もちろん、貴方の専攻している分野によっては、扱う数字の桁は常に一つしかなく細かな値の違いしか関心がなかった、という人や、あるいはそもそも具体的な数字をほとんど取り扱わず、全然数字への勘がない、という人もいるだろう。
ただ、どんな形であれ、今自分が関心を持っている仮説を検証する、ということは必ずやるはずで、「この内容で明らかに誤っていることはないか」というチェックをする習慣は身についているだろう。それを単に数字に対しても行うだけだと考えれば難しいことではない。

これができると周りの同僚からの信頼を得られやすい
何かの施策を話し合っている際に、「これはこうだから、まぁだいたいこんなものですよね」ということを貴方がやってくれるので、仮定の話をより具体的に考えやすくなるためだ。

バグを見つけるのがうまい

一緒に働いたことのある人なら賛同してくれる人は多いのでは、と思うのだが、この分野で珍しく自信をもって言えるのが、自分はバグを見つけるのが得意だった、ということだ。
もちろん、対象となるシステムは自分が作っているサービスに関わるものだけで、Googleが提供するサービスのバグバウンティで賞金をゲットしています、とかではない。

ただ、これまでの同僚の中で最も高い技術力を持ち、信頼しているソフトウェアエンジニアに作ってもらったシステムが、どうしても理論的に必要なパフォーマンスが出ず、彼自身からも「これ以上深く調べるには相当時間がかかる」と言われ半分お手上げだった問題に向き合った時、起きている事象の特徴とコードから、なんとか自分でそのバグを特定したことがある
その後僕が書いたそのバグを改修するコードは、当然のごとく彼のレビューで却下されて、より正しい方法で直されたのだが、まぁそこは問題ではなく、少なくとも「何かがおかしい」と気づくこと、そして「その原因はこれだ」ということは他の人よりも得意だった。
スタートアップ以外でも、大手SIerウォーターフォール開発をやっていた時、テスト設計のフェーズでコンディションをきるのも得意だったし、標準的なシステム開発プロセスにないところで、勝手に試験環境を叩いてバグを見つけたりするのも好きでやっていた。

以前はこの特性は単に自分の個人的な嗜好によるものだと思っていたのだが、よく考えてみると、大学でのサイエンスのバックボーンで役に立っているものもあることに気づいた。
前節の最後の方にも書いたのだが、科学者の仕事の多くは、自分が考えた仮説を自分自身で検証する、ということである。 それは、その仮説が今関心の対象となっている事象を説明できるか、ということだけではなく、それ以外の既知の現象全てと整合しているか、ということも重要なポイントだ。
自分が考えた方程式の中のある変数の極限を考えたときに、既存の別の現象とスムースに繋がるか、といったことや、より根本的な原則に違反していないか、ということは常に意識していなければいけない。

これは自分一人で仕事を進める場合でも行うことだし、共同研究者と議論をする場合も、相手の説明する内容に穴がないかをなんとか見つけようとする。そうした穴がなくなって初めて、研究として外に出すことができる仕事になる。
研究でこういった仕事の仕方をしていたせいか、サービス作りにおいても、そのサービス・機能を実現するためのシステムを構築しようとする際、そのシステムの「穴」に敏感になり、様々な視座・視点から問題がないかを検証することができるようになっていた気がする。
また、そのシステムの実際の挙動に意図せぬ動きがあった際に、いち早く「これはあるべきでない挙動である」と気づき、その現象からその裏で動いている仕組みのどの部分が原因であるのか、ということに素早く辿り着くことができる力も身についた。

あるがままを受け入れられる

人間の目に存在する「盲点」というものについて知っているだろうか。
生物系の専攻の人間であればおそらく大抵の人は知っているであろうし、そうでなくともどこかで読んだことがある人も多いだろう。

wikipediaの記事で十分理解できると思うが、簡単に言うと、人間の目には比喩的な意味ではない生理的な「盲点」と呼ばれる、外部からの光を検知できない領域が存在しており、本来その領域でキャッチされるべき内容は実際に見えていない
なぜそんな領域があるかというと、光を受け取る網膜の「表側」から脳へと信号を運ぶ神経が出ており、その神経を目の「裏側」に配線させるために網膜の一部に穴を開けて通しているためだ。
ただ、人は普通、日常的にはその穴の存在に気づかない。本来なら視界の一部が真っ黒く塗りつぶされているはずなのに、脳が勝手にその穴を補完して、あたかも見えているかのように錯覚させているからだそうだ。
wikipediaの記事中にあるような特殊な状況に身を置くことで、見えていない部分がある、ということに気づくことができる。

おそらく、エンジニアと呼ばれる人間がこの仕組みで作られたカメラをみたら、大抵はFワードを口にするだろう。
ただ単に裏側から配線していれば必要のなかった穴を開けておいて、その穴がないかのように見せるためにわざわざ貴重な情報処理リソースを費やしているのだ
入社した会社がこの作りでできたカメラをベースに事業を営んでおり、その面倒を見ながらなんとか機能を拡張していかなければいけない、という状況に陥れば、「これをつくったやつは〇〇だ!」と悪態をつく人間は多いだろう。

しかし、実際のところ、世の中で動いているシステムには、このようなものが無数にある。
人間の目は、先祖の目の進化の各々の過程において生存最適な特徴を持つものが残っていった結果こうしたデザインとなったのだが、サービス作りの現場で「技術的負債」と呼ばれるものの一つで、作るときに携わっていたエンジニアがどれだけ優秀であろうとも、その時点で見えている情報だけでは決して想像できない業務要件がその後にあり、その時その時の最適解を選び続けた結果「酷い」システムになる、ということが往々にあるのだ。
(もし「俺が神なら最初からまともな設計にしてたよ」という人がいれば、その人には「では今から1億年後の人類の子孫たちにとっての最適な目を設計してください」と言ってみよう)

こうしたシステムに遭遇したときに「怒り」を覚えること自体は何も問題ではない。そのシステムのリファクタリング(盲点の例でいうなら、神経を裏側から出して穴を塞ぐ遺伝子改修を行うようなこと)をして、よりシンプルで拡張性を持ったコードにすることのモチベーションとなるのであれば、是非利用すべき感情だ。
だが一方で、若いうちはこうした感情のコントロールがうまく働かないことがある。立ち向かっている事象以外のことで心を動かされるような場合は特にそうだ。例えば、その「酷い」システムを作った人間が同じ職場にいて、自分より高い報酬を貰っている、といったとき、そのストレスが単なる精神的ダメージになってしまう人もいる。

そんな中、自然科学に長く浸かってきた貴方は、意外にもこうした酷い負債を見てもあまり心が動かされることはない
例として述べた盲点がまさにそうだが、自分達が相手にしてきた自然はなんでもありで、「酷い」システムは無数に存在しており、それをたくさん観てきた経験が、それらをそのまま、ただそこにあるものとしてフラットに受け止めることができるのだ。
「このシステムはそういうものだからずっとそのままにしておけばいいんだ」という誤った認識さえ持たなければ——すなわち、必要な際には優れたエンジニアと同様、リファクタリングに向かうことができれば——この特性は非常に強力な武器になる
手を動かさずに愚痴を言うだけの人間には誰も良い感情を抱かない。黙々とやれる貴方は同僚からリスペクトを受けられるだろう。

弱み・気をつけるべきシリーズ

貴方が何かの特性を持っているのであれば、それは当然のことながら、ある場面では強みになるが、別の場面では弱みともなりうる。
そうした例もあげておこう。

貴方は設計者ではない

前節の「酷い」システムとは真逆の話になるが、自然科学の研究をやっていれば、この自然界に存在する「優れた」システムにも多く触れてきただろう。
一見複雑に見える事象が、たった一つのシンプルな原則のもとで説明できる、「神が作りたもうた」究極的な美しさを持ったものだ。
「自分はそういうものに多く触れてきたから、システムの設計もできます!」というアピールをしようとする人も中にはいるかもしれない。
だが残念ながら、貴方にはそのようなことはできない。
才能の有無や、向いている・向いていないといった話ではなく、単純な事実として、貴方は「ある目的を達成するためのシステムを設計する」という仕事はしてきておらず、そのような技術は身につけていない、という話だ。

もちろん、自然科学専攻者の中には、極低温の実験をするためにその低温環境を実現するための装置の開発をしていました、というような人もいるだろう。あるいは、分子の運動をシミュレーションするためにその数値計算用コードをずっと書いていました、というような人も。
そうした経験は間違いなく、エンジニアリングの経験として大いに誇っていいモノだろう。
だが一つ忘れないでいてもらいたいのは、学部の4年間を含めて貴方が最も長い時間身をおいていた所、すなわち貴方が足場にしている「巨人」は、あくまでも観測された自然現象の法則性を明らかにする営みであり、対象をコントロールすることの訓練は受けていない。
もちろん、大学は職業訓練所ではないのだが、とはいえ工学系の専攻者は間違いなく、貴方よりも長く・深く、それらを学んできており、明らかに貴方とは違う巨人の肩への乗り方を知っている。その点にはリスペクトを払う必要がある。

幸い僕は、働いてきた多くの期間で、そのようなエンジニアリングのバックボーンを持つ優れたアーキテクトと一緒に仕事をすることができていたため、彼らのおかげで間違いを犯すケースは少なかったし、多くのことを学べたが、それでも自分一人でアウトプットせざるを得ないときには、その分野の勉強をサボっていたツケを「他人に」支払わせる酷いものを多く作ってしまった。
「盲点」を思い出してほしい。もし貴方がエンジニアリングの勉強をせずに重要な仕事をしようとした場合、あの悪夢の穴を作り出すのは、誰でもない、貴方自身となる

人を否定してしまう

まず事実として、人とのコミュニケーションにおける「否定」は貴方がイメージするものとは違うことを理解しよう。
命題や仮説を否定する、というとき、それはその行為者の意図の中で閉じているものだが、人と人の間では「否定」という事象はそのようには働かず、むしろ貴方の意図とは全く何の関係もなく発生しうる
例えば、朝職場で同僚に会った際、貴方が何か考え事をしていてその同僚に気づかず、挨拶をしなかったとしよう。そのとき、もしその同僚が「否定された」と感じたのであれば、それは否定のコミュニケーションになっている。
「いやいや、否定してないですよ!」というかもしれないが、残念ながら、貴方の頭の中は誰からも観測されておらず、この世界に発生した事象は「その受け手がどう感じたか」ということしかない。そして、結果だけを客観的に観測すれば、それはもう否定が行われたのと同じことなのだ。

この重要な事実と、「強み」節で述べた貴方の持つ特性が絡むと、やっかいなコミュニケーションが生まれるケースがある。
スタートアップではすごいスピードで様々な試行錯誤が行われるのだが、当然それに伴って貴方にも様々な相談ごとがやってくる。
同僚からの「こういうことをやりたいんだけど」という話を聞いたときに、貴方がやりがちなアクションを当てよう。
貴方は「それだと、こういうケースのときにダメだね」と言う
「バグを見つけるのが得意」の節でも述べたが、自然科学で仕事をしていたときに貴方が散々やってきたことで、それは染みついている。
何か仮説となるようなものを見たときに、まずそれに穴がないかが気になり、それが見付かればすぐに指摘する。
研究のディスカッションであれば、それは何も問題ないことだ。まさにそこから価値のある仕事が始まっていくのだから。
しかし、残念ながら、スタートアップのサービス作りの職場では、そこから何も始まらず、終了することは多い
貴方からその言葉をもらった同僚は「否定された」と感じ、貴方に反発して何も価値を生まない言い争いが発生するか、あるいは距離を取られ、結局何かが作られることはない。

それが続けば、貴方の社内での扱いは残念なものになっていくだろう。上司から「気をつけてね」と言われるかもしれない。
その時貴方は「いや、そんなつもりじゃないですよ!」と言うだろう。
だが思い出してほしい。大切なのは、この世界に何が発生しているか、ということだ。そして、その世界をコントロールするための手段が何なのか、ということを。
「同僚がそういう受け取り方をやめればいい」というのは明らかに意味のない要望だ。なぜなら貴方は同僚をコントロールすることはできないのだから。
自然科学で何かの検証をしたいときに、自分自身では決して制御できない要素、例えばその地の天候や宇宙線量といったものを相手に、場所を移すでも影響を最小化する装置を作るでもなく、「これらが変われば良い実験ができる」と言って何もせずに待っている人間を見かけたらどう思うだろうか
貴方がやるべきことは、自分でコントロール可能なものをコントロールして、最大のアウトプットを出す、ということだ。そして貴方がコントロール可能な最大の資源は、貴方自身だ。

新しく作ろうと思う仕組みに穴がないかを見つけることはとても重要だ。だが、それよりも大事なことは、新しい何かをつくることで、そのためには同僚を否定してはいけない(何度も言うが、貴方が否定するつもりかどうかは関係がなく、否定されたと思わせない、ということだ)。
誰かから話がきたら、まず「肯定」しよう
やり方は非常に簡単で、単に一言先に「いいね!」をつけるだけでいい。何が良いのかと聞かれたら、その同僚が向かおうと思っている先・作り出したい価値が良い、と言えばいい。そのための「方法」のディスカッションはいくらでも後でやればいいのだから。
念のために補足すると、たまに、本当にただ「手段」だけが飛んでくる場合もある。
「この形の歯車にしたらずっと動き続けて仕事してくれるんですよ!」とか、科学者なら誰の目にも穴が明らかな永久機関を持ってこられた時、しかしその時でもまず肯定してあげよう。どんなものであれ、捻りだせば肯定可能な要素は持っている。そして貴方は「捻り出す」ことは得意なはずだ。永久機関の例であれば、その同僚はきっと、エネルギー問題を解決したいと思っているのだ。素晴らしいことだ。そこを肯定しよういいね!と言うのだ

取るべきアクション

ここまでは貴方が自己アピールで使えるかもしれないヒントを書いてきたのだが、それだけではただ教科書を読んでいるのと同様、まだ受け身な立場だ。お金を稼いで生きていくには、なにか外の世界に作用するアクションをとる必要があるのだが、そのための一番のおすすめが以下だ。

インターンに行こう

企業側でプログラムが用意された一日体験みたいなものではなく、実際にその職場で発生している仕事を一緒にこなす、というインターンに行こう。
スタートアップ企業の多くはそうしたインターンを募集している。その企業がどういうサービスを作っているかとか、労働条件がどうとかは本当にどうでも良いから、自分が稼働できる条件にマッチするところに応募してみよう。

目的は2つだ。
まず、一つ目に得られるものは、貴方が「働いたときの自分を観測できる」ということだ。
これは非常に非常に大きい。
僕がいた素粒子理論物理学の分野は、もはや理論研究が実験を追い越し過ぎてしまって、自分達の仮説を検証するような実験がおいそれとはできなかったり不可能だったりするのだが、その苦労がどれほどのものか想像できるだろうか。
貴方には貴方の人生の目的があるだろうが、間違いなく「幸せであること」は意識して良いものだ。そしてそのためには、「自分はこれをやると幸せだろうか」という仮説の検証を行うべきだ。
もしインターンで働いてみて、向いていないな、と思えばそれでいい。単にその企業が性に合っていないだけの場合もあれば、スタートアップという文化それ自体や、あるいはサービス作りがあっていない、という人もいるだろう。だが何にせよ、「これは今の自分にはあっていない」ということを知ることができるのは、非常に大きな価値がある。人によってはそれを知るために多大なコストを支払う人もいるが、インターンであればコストはないようなものだ。

もう一つは、「強み」で書いた内容を、本当のことである、と証明するためだ。
僕は採用選考をやっていたこともあるが、流石に一度もコードやサービスに触れたことのない学生が「バグを見つけるのが得意(かもしれません)」と言ってくるのをそのまま信じるのは難しい。
だがインターンで働くことができれば、その企業のコードに触れられたり、最悪でもサービスに触れることはできるだろうから、あれこれ触ってみて、どうでもいいようなつまらないものでもいいから、何か2、3個バグを見つけることができる。
「絶対に」という表現を使える科学者は少ないだろうが、数少ない「絶対」の一つとして、「バグのないシステムは絶対に存在しない」という事実は多くの人間が苦笑混じりでも否定はしないだろう。だから、何かは見つけられるはずだ。ただのタイポだっていい。
具体例と共に語られるアピールは強い。是非それを手に入れよう。

インターンを経験しない方がリスクかもしれない

大学が忙しくて、そんなことをやっている暇はないよ、と言う人もいるだろう。だから「普通の」就職活動だけをして、4月から初めて働き始めますよ、という人が。
多くの人がアドバイスするであろう「新卒切符を大切に使え」とは真っ向から反逆してしまうのだが、普通に卒業してからインターンをやる、というのも悪くない選択肢だと思う。
僕の友人には、物理学の大学院修士課程を終えた後、いわゆる新卒採用の就職活動に失敗し、実家で2年ほどニートをして、その後にIT系ベンチャー企業インターンで入り、そのままその企業に雇用されて上場まで経験している人間がいる。
経歴だけを聞くと、特別なギフトに恵まれた人間だと思うかもしれないが、彼は間違いなくこれを読んでいる大多数の人と同じような、どこにでもいるくらいの意識の「低さ」の人間だった。そもそも学生時代に必死に就職活動をしていたのだから、本当にすごければ新卒で「すごい」会社に入ってただろう。
「そんなN=1の特別な生存者ケースをもとに誤ったアドバイスをするな」というのはその通りで、だから真似をしろとは思わないが、だが少なくとも、そうした状況に陥っても(=何も就職先が見つからずに卒業しても)、何も終わってなどいないし、絶望なんてする必要はない、ということだけは伝えたい。
貴方がリスクだと思っている「新卒で就職できないと終わり説」は、本当に今の世の中でも、インターン無しに働き出すことの期待値を超えた「仮説」かを検証しただろうか?

終わりに

自然科学を専攻してきた人たちは、この世界がどのような仕組みで動作しているのか、を常に思考してきた。
一方、ある目的を達成するためにどのような仕組みを作るべきか、ということはやってきていない。
この二つは関連していることもあるし、実際、偶然うまく当てはまるケースがあれば、その仕組みを考えることができるかもしれない。
だがそれでも繰り返し言うが、もともとそれを本職に専攻してきた人間がいて、普通にやっていてはその人たちに追いつくことはできない。
エンジニアやデザイナーになりたいならば勉強し続けろ、というのが正しいアドバイスだろう。

だがフォーカスすべきなのは、自分の職種をどう選ぶか、ではない。
もし今それが気になっているとしても、もっと深く考えれば、その上位あるいは先に、より根源的な欲求があるはずだ。
この世界の何がその欲求と関連しているのかを観測し、その欲求と事象との相互作用の法則性を解き明かし、どのような行動を取ればうまくその法則と調和できそうかの仮説を立て、穴がないかを検証し、実際に実験してみよう。
それは決して、エンジニアリングの勉強を積むことより簡単ではない。だが、簡単だからやることよりも、面白いからやることの方が楽しいはずだ。

AIが正体を隠すことの是非とテストの条件:『アイの歌声を聴かせて』を観て浮かんだ疑問に対する自分なりの回答

今週は個人的な映画週間で、映画館で観た作品だけで5作品もある。
その中で一番ぶっ飛んでるな!と思ったのは『パーフェクト・ケア』なのだが、

『アイの歌声を聴かせて』という作品を観て、内容とは大して関係がないある疑問が浮かんだので、それについて少しまとめてみた。

この映画の結末等には一切触れないが、若干ネタバレが含まれるので、気になる人は先に映画を観る等して欲しい。
また、記事のタイトルに作品名が入っているにも関わらず、映画の感想はないことを先に謝っておく。

『アイの歌声を聴かせて』の設定から浮かんだ疑問

『アイの歌声を聴かせて』がネットで評判が良いことは知っていて、「予告を観て戸惑ってる人も信じて!」と言っている人がいるのも知っていたものの、まさにその予告を観てあまり行く気になれていなかった(笑)のだが、友人から監督が『イヴの時間』を作っていた人だと教えられたことが最後の一押しになって観に行った。

ただ、序盤というか、サイトのあらすじにも記載されているこの映画の基本設定について、自分の中である疑問が浮かび、映画鑑賞中ずっとそのことについて考えてしまう、という勿体無い時間を過ごしてしまった。
もっと土屋太鳳の歌を楽しむべきだったのに。

何に疑問を感じたか

この映画の舞台は近未来で、かなり高度に発達したAIが出てくる。
キービジュアルに一番大きく映っている女の子が実はAIで、AIであることを周りに隠して高校のクラスに転入し、5日間、周りの人間にAIであることがバレずに人間として自然に振る舞えるか、というテスト(劇中では「ウォズニアックテスト」と呼ばれているテスト)をする。
そのテストを突破できれば、晴れてそのAIは人間と同等の知能を持った存在だと見做されるのだ。

劇中、登場人物によってこのテストがなんらかの法律に違反スレスレである、というようなセリフが出るのだが、このテストを行うことの何がまずいと思うだろうか?

いろんな切り口があるとは思うのだが、僕がその設定を聞いた瞬間に思ったのは、
「これ、テストに付き合わされる高校生に致命的なトラウマを与えない?」
ということだった。

アニメのキャラなのでみんな可愛く見えるかもしれないが、このキャラクターは劇中でも美少女という設定で、何人もの同級生から好意を抱かれる。
それくらいならまだいいかもしれないが、もしある高校生が実際にそのAIとコミュニケーションをとって、真剣にそのAIのことを好きになってしまったとしたらどうだろうか。
そして、テストが終わった後に「実はこの子はAIでしたー!」とやられたとしたら。
その時、その高校生はどう思うだろうか。

一番綺麗な展開なら、その高校生はそのAIに人格を認めて「それでもいいんだ」というだろう。であれば局所的には大きな不幸はない。
だが仮に、その高校生が事実を知った時の反応が「え?人が作った機械なの?ただのプログラム相手に真剣に想いを寄せちゃったの?コピー可能なの?消えるの?」みたいなものであれば、深刻な精神的ダメージを負うかもしれない
というか自分ごととして考えたら十分あり得ると思ったのだ。

テストに巻き込まれる人間に関する倫理的な問題

このテストを、劇中で一人のマッドサイエンティストがやっていたのであれば、そういうヒトの心を考慮しないサイコパスもいるよね、とそのまま飲み込んだのだが、実際には複数のまっとうそうな大人たちが関わり、ある一部署の独断ではあるが、企業としてこのテストを行なっていたので、それ倫理的に許されるの!?と衝撃だった。

冒頭でも述べたが、監督の吉浦康裕は過去にAIと人間との関係についてより深く描いた『イヴの時間』というアニメも作っている人間で、ここで僕が述べたような懸念は百も承知のはずだ。

というのも、『イヴの時間』の舞台も人間そっくりなロボットAIが既に多数存在する世界だが、その世界では、AIは周りから見て一眼でAIであることが分かる目印を常に出していなければいけない、という法律があるからだ。
なので、その監督がこのように描いている、ということは、たぶん実際には僕が上で懸念したようなリスクがさほど大きくないことが何かで証明されているか、あるいは作品で描きたいメインテーマに関係がない些細なこととして、話の舞台のためにあえて採用しているのかもしれない。
現実でもいい大人の集団が馬鹿げたことをするのはよくあるし、これをもってこの映画の価値がどうこうすることはないだろう。

ただ、このことが気になりはじめて「じゃあどういう形だったらこのテストが許されるんだろう」という思考が止まらなくなった。

AIが人間相当の意識を持つことを確かめるテストに必要な条件

まず真っ先に「これなら許されるのでは」と思った条件が以下だ。

  • 高校生ら周りの人間が全員、「この中の誰かはAIかもしれない」と知っている

人によってはそれでも事後にトラウマを受ける可能性あるだろ、と思うかもしれないが、なんとなくこのケースは許される気がした。
というのも、『イヴの時間』ではある喫茶店を舞台として様々な「AI模様」が描かれるのだが、そこでは先に書いた作中の法律を無視して、その場にいる人物がAIなのか人間なのかわからないようにすること、というルールがある。
僕がその『イヴの時間』を見た時は今回書いたようなことを何も感じなかったのだが、その違和感を覚えなかった理由が、『イヴの時間』では情報がその場の人間に対して共有されていたことによるのでは、と考えた。

そして、さらに上の条件を満たした上で、追加の条件として以下が必要だと感じた。

  • そのAIが本当に自由意志を持っている

テストの目的が「人間と同等なのかを確認する」ということなので、普通はテスト時は自由意志を持っていることは証明されていないだろうが、それでもそのAIを作っている科学者・技術者達は先んじてそのAIと会話しているはずであり、それを通じて「このAIは人間と同じような存在なのだ」と信じているはずだ。製作者にその信念があるのであれば、黙ってテストをしても許されると思った。
逆に、テストの対象群として、明らかに自意識が存在しない「弱いAI」を投入するのは許されない、と僕は思う。

映画を観た人なら、なぜ僕が最初の疑問を感じたか、ここでわかったと思う。
作中ではAIをテストしている大人達がそのAIとコミュニケーションしているシーンがなかったのだ。
そのためより一層、劇中のAIが、人の手でプログラミングされた単純ルールに従うだけの機械である可能性が頭によぎり、絶対に周りの高校生は傷つくだろう、と思ってしまった。

そもそも相手にショックを与えること自体が問題なのか?

ただ、よく考えていくと、この2つ目の条件は怪しいのでは、と思い始めた。
というのも、例えAIが本当に人格を持っていようとも、実際にテストに利用された高校生が、どのように感じるかはわからないからだ。
その高校生は別の信念を持っていて、どれだけ高度な知能を持っているAIでも、それを人間とは認められず、計り知れないショックを受けるかもしれない。

そんなことを考えながら、この「後から正体を知ってどうこうする」というのは、別にAIに限ったことではなく、普通の人間関係においてもよくある話だな、と気づいた。
そしてその結果、やっぱり相手がショックを受けるかどうかとは無関係に、テストが許容されるロジックはあるはずだ、と思った。

なぜ許容されると思ったのか。
人間同士の関係の例を出す。

ある男女2人が文通だけで愛を育んでいた。そしてある日、ついに2人は実際に顔を合わせることとなった。片方は白人で、片方は黒人だった。白人が言った。「黒人だなんて聞いてない!」
この「嘆き」を認めるだろうか?
さらに別の例で、仮に2人が男女ではなく同性だったら?片方は異性も同性も愛する両性愛者で、もう片方は異性愛者、そして異性愛者側が「同性だなんて聞いてない!」と言ったとしたら。

もし前者は許容されるが後者は許容されない、と考える人がいた場合、その理由は何だろうか?
一般的には異性愛者の方が多数派だから?では黒人差別思想が大多数を占める街(ショックを受ける人が多そうな状況)では前者も許されないだろうか?

自分自身を当事者として考えた場合、相手の「正体」を後から知ってショックを受けるケースはいくらでもある気がした。
それでも、しかし、どのようなケースであっても「これが満たされていたら最終的には許せるかもしれない」と思うことがある。
それは、「正体」を明かさないということを、その相手が自身の意思で選択し、自分に真摯に向き合っていた場合だ。
AIに真に意識があるならば、これから「騙そうとする」人間に恨まれることも含めて、自分自身でそのテストに参加するという選択をとることができる。しかし、AIに意識がないなら、そのテストは裏にいる科学者達の掌の上で踊らされたものだと感じてしまい、ほくそ笑みがどうしてもチラついてしまう。
もちろん、「ほくそ笑み」という意味でいうなら、そのAIが不真面目なやつで、相手をおちょくってやろうという考えで騙されれば、同じように怒りを覚える。しかし、それはそのAI「個人」の責に起因する問題であって、テストの実行それ自体は問題ないと思う。

最終的に、僕がこのテストが許されると思う条件は以下となった。

  • 作った人間が、そのAIが人間と同等の意識を持つと信じている
  • 上の条件を満たしたAIが、「この中にAIがいるかもしれない」と関係者全員が知っている状態でテストを行う
  • 上のテストを突破したAIが、自分自身でAIであることを隠してテストを行いたい、という意思を持ってテストを行う

この条件が達成できれば、少なくとも自分がテストに巻き込まれても許容する。

ただそれでも、例えば自分に高校生の子供がいたとして、その子がテストの参加者になることを考えると、この条件だけでもOKだと思うかは自信がなく、法律のような社会としてのルールを決める場合は上記では足りないような気がする。
だがその条件はまだわからない。
たぶん、心理学の実験に関する倫理等で散々議論されている気がするので、その辺を勉強したい。

意味の存在に気づく–– ego:pression イマーシブシアター『リメンバー・ユー』感想

以前ブログに書いた ego:pression のイマーシブシアター『リメンバー・ユー』を千秋楽まで観終えたので、改めてその感想をまとめることにした。

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ego:pression「リメンバー・ユー」

前回の記事を書いたときは、まだ完成前のプレ公演を1回観ただけの状態だったので、ego:pression という団体のイマーシブシアターに対する思いを述べただけだったのだが、正式な上演を複数回観て、恐らく1度しか観なかった人では感じられなかっただろう体験も得られたので、前回の自分自身の言葉「感じたことを言葉にしてもらいたい」に従って、感想を書く。

なお、公演の具体的な内容は特に説明しない。
ネタバレが、ということもあるが、例えば美術館で見た画について「XY座標〇〇位置は、CMYKカラー××色で」と書いたところで、それが完璧に正しい情報だったとしても、何も伝わることがないだろうからだ。

体験し、感じたもの

映画が好きで、好きな作品を見直すことも多いのだが、あるひとつの作品をこれだけの回数、しかもこれだけの短い間に体験したのは初めてだった。
しかし、その複数回の観劇の中で、一度たりとも「ここまでたくさん来る必要はなかったな」と思ったことはなかったし、同じ体験をすることもなかった。
イマーシブシアターが、観客自身が物語を見つけるスタイルの舞台である、ということももちろんその理由だろう。しかし、それだけでなく、登場人物たちと同じ空間にいること・その演出の形・そして演者達の演技によって、そこにいる人々を愛おしく感じられるようになったことが大きかった。

だが最後の千秋楽、ついに単なる感動だけではなく、「新しい視点」––––イマーシブシアターを観るための視点ではなく、生き方に関する視点––––を得ることができた。
その体験を順番に記す。

初回:物語に心を打たれる

前作・前々作を体験してイマーシブシアターにも慣れているので、初回から遠慮なくグイグイ近づいて堪能していた。
途中よく分からないことがあったり、今これは何を見ているのだろう?と思う時もあったが、きっと彼らなら、必ず最後には僕の心を素晴らしい場所に連れて行ってくれるはずだ、という半ば信仰に近い信頼を置いていたので、そうした道中の疑問は何もストレスにならず、身を任せることができた。

前の記事にも書いたように、ダンサーの本気のパフォーマンスを間近で独り占めする感覚に興奮を覚えながら、終盤、舞台の中で演じられる事柄に「え?そういうことなの!?」という驚きを感じて肌が粟立ちつつ、さらにそこからクライマックス、物語上の感動的なシーンに遭遇し涙を流す。
演者のダンスと演技が物語の情報を補足してくれるのだが、例えそれがなかったとしても間違いなく心が震えるパフォーマンスに、やっぱり来てよかった、という幸せな気持ちになった。

そして、帰宅しながら「あれってどういうことなのかな?これってそういうことなのかな?」という、イマーシブシアター鑑賞特有の疑問が浮かび上がり、早くもう一度観たくなる。
おそらく初回こういう体験だった人もいると思う。一番心を打たれたのは、その物語とパフォーマンスだった。

2回目:世界に感動する

チケットが空いていたので、既に複数チケットを確保しているにもかかわらず、図々しく当初の予定よりさらに「追い」チケットをして2日目に参加する。
気になっていたが初回にあまり見られなかった演者を追いかけながら、前回「こうかも」と思ったことの「答え合わせ」をしつつ、改めて初回に見過ごしていた様々な仕掛や伏線に気づき、個人の物語というよりは、今回の舞台の大きな構造を理解し、その世界が深く考えられて演出されていることに感動する。

一度しか観なかった人でも、一緒に行った友人と何を見たかを話し合うことで、別の視点を借りて自分が見られなかったことを知り、同じような体験ができたかもしれない。パズルの全てのピースがはまったわけではないにしろ、多くが埋まって全体像が見える、ある種の「謎解き」のような楽しさだ。
一人の人間にずっと集中していたため、ダンスも思い切り堪能できて、やっぱり追加してよかったな、と再び幸せな気持ちになる。

3回目〜: 人を愛おしく思う

全体の構造は理解できたが、10人もいる登場人物全ての物語は当然ながら追い切れていないので、3回目以降はまだよく知らないキャラクターを追いかけ、「どうしてああなったんだろうな」「あの時何をしていたんだろうな」といったことを知ろうとしていた。
そうしながら、個々のダンサーのパフォーマンスを味わえればそれでいいな、と思っていたのだが、回数を重ねるにつれて自分の心に全く予期していなかった想いが浮かんでいくことに気づいた。

ダンサーのパフォーマンスを味わうことを最大の目的としつつも、とはいえそれまでは、脳のリソースのある程度を、話を追って提示されているものの意味を読み取ることに割いていたのだが、流石に3回目以降ともなるとそういったことからも解放され、各キャラクターそのものに集中して見られるようになった。
また、それまでの観劇で、見ているキャラクターの過去に何があって、これから何が起きるか、ということを知っている状態で眺めていると、それまではなんとも思わなかった一つ一つの仕草がとても大切なものに思えてきた。
初回に「今自分は何を見ているんだろう」と思っていたシーンでも、自分の頭の中で登場人物の心が補完されて、それだけでとても感動的なシーンに見えてきたのだ。
目の前にいる登場人物が机を優しく撫でる姿だけで、彼女の人生にあったそれまでを想像し、彼女が何を大切に想っているかが伝わってくる。遊びながら楽しそうに踊っている姿を見ながら、彼がこれから体験することに思いを馳せ、そのかけがえの無さに貫かれる。

そうした体験を重ねると同時に、見ている登場人物達が本当に愛おしく大切な存在に感じられるようになっていった。
実物の人間が手で触れられる距離で演じている力によって、登場人物に向かって「僕は貴方を知っているよ」「貴方を見ているよ」と言葉をかけたくなるような親近感が生まれ、好きになれた。

そして、彼らを好きになるのと同時に、現実の世界で自分を取り巻く人々も同じように大切なのでは、と思うようになった。
僕にも離れて暮らす家族がいて、そこにいることが当たり前だと思っていたけれど、それは決して当たり前のことではない、ということに気付かされ、会いに行こうという気持ちになる。
街ですれ違う名前も知らない人々にも、この舞台の登場人物達と同じように物語があるんだ、ということに気づき、少しだけ優しく接することができるようになる。
「その歳になってようやく気づいたの?」と突っ込まれそうな話だが、あまりにも日常的なことは、あまりにも当たり前過ぎて、どうしても意識的に生きることが難しい。それを思い出せたことの幸せを噛み締めていた。

最終回:他者の「意味」に気づく

予定していた全ての回を観終えて、なぜかふと、業田良家の4コマ漫画『自虐の詩』の存在を思い出した。
自虐の詩』は多くの人から傑作と呼ばれ「泣ける4コマ漫画」としても有名な作品で、ご存知の方も多いかもしれない。
以前はよく読み返していたのだが、手元からなくなって10年以上経過していて、良い作品だったということ以外、ストーリーから中身から、まるっきり全部を忘れていた(あの熊本さんのことすら覚えていなかった!)のだが、再び読みたくなって電子版を購入した。
読み返して、やっぱり良いな、と思ったのだが、この『リメンバー・ユー』と『自虐の詩』のストーリーに似ている部分があるわけではなく、どうして思い出したのかがすぐには分からなかった。
共通点を上げるとすれば、どちらも涙を流したことと、『自虐の詩』もまた、『リメンバー・ユー』と同じく何度繰り返し読んでも感動が色褪せないことくらいだ。

だが最後まで読んで、有名なモノローグを噛み締めながら、千秋楽に体験したことを思い出していた。

千秋楽、僕はある一人の人物を最初から最後までずっと追いかけていたのだが、その途中、場所を移動するその人物の後を追っていた際、2日目の公演で見ていた別の人物が一人で踊っているシーンとすれ違った。そのシーンももちろん過去に観ていたので、その彼女を横目に見ながら「あぁ、あのシーンなんだな」と思い出すことができた。
それは彼女の魅力を表現する場面ではあるが、何かの重要な伏線になっているわけではないし、それ単体でドラマチックな物語になっているわけでもない、なんていうことのないシーンだった。
その時までは、そうしたなんでもない日常のシーンを「直接」観て楽しんでいたのだが、その時は別の人物を追いかけていたために、頭の中に彼女がいるにもかかわらず、観てはいない、という体験になった。
そして、彼女は、例え彼女を見る観客が誰もいなかったとしても、一人で踊り続けていただろう、ということも分かっていた。

その瞬間、自分が今回の公演で気づいたと思っていたことに不足があったことに気づいた。

自虐の詩』はこのようなモノローグで閉じる。

幸や不幸はもういい
どちらにも等しく価値がある
人生には明らかに
意味がある

以前の僕は、「自分自身の」人生に意味がある、という捉え方をしていた。
「幸や不幸という物語」があるから、それらに価値があると思っていた。
自分の身に起きることすべてを、厳粛に受け止めて生きていくべきなのだと。
だが、幸や不幸だけでなく、「そのどちらでもないもの」にも価値はあるのだ。
例えその人生に劇的な物語がなかったとしても、その生には意味がある。
街ですれ違う人を見つめた時、その人に物語なんかがなくても、その人にも、「他者の」人生にも意味がある。
僕の頭の中で一人楽しく踊る彼女が無言で語りかける「私はここにいるよ」という言葉に、それを伝えられた気がした。

最後に

優れた作品は鑑賞者に影響を与え、その行動を変容させる。とはいえ、単なる感動だけではその変容は長続きせず、ほとんどはすぐに元の生活に飲まれていく。
『リメンバー・ユー』によって僕の中に生まれた変化はたくさんある。
上で書いたように、家族に会いに行ったし、見知らぬ人にも少しは優しくなれた気がする。
今も音楽を聴くと、それが公演で使われた曲ではなくとも、頭の中で彼らが踊る姿が思い浮かび、温かい気持ちになる。
もちろん、これらも時間が経てば薄れていくだろう。
だが、それでも、一過的な感動だけでない、今回の体験によって得られた大切な視点は、これからも僕を支えてくれるだろう。

人生をなにものとも比較しないことと同じように、この作品も、彼ら自身の前作や他のアーティストらの作品と比べて評するようなものではない。
だから、優れているという意味を帯びる「傑作」という言葉で表すべきではないかもしれない。
敢えて短く言葉にするとすれば、ただ純粋に、意味がある
僕にとってはそういう作品だった。
感謝を。

間接的に影響を及ぼすこと、あるいは自分と異なる人へのサービス提供の是非について

少し前からちょっと考えていることをまとめた

人をサポートする人工知能

マーベルの映画『アイアンマン』に出てくるジャービスのような存在が好きだ。

『アイアンマン』を観ていない人に簡単に説明すると、ジャービスというのは作品中に登場する人工知能(AI)のようなものだ。
主人公であるトニー・スタークは天才的な科学者・技術者であり、悪に立ち向かうために、自身の身体を覆う鋼鉄のスーツを作り出す。
トニーの天才性によって作られたそのスーツは、誰にも真似できない様々なハイテク要素があるのだが、そのトニーの発明の一つとして、トニー自身をサポートしてくれる「ジャービス」と呼ばれる人工知能がある。
何か調べ物をしたければジャービスに語りかければすぐに答えを返してくれるし、スーツの様子を常にモニタリングしていて調子が悪い時には通知をくれ、時には小粋なジョークを飛ばす。

このような、人間の主人公をサポートしてくれる機械は、僕が知っている古い作品ではハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』に出てくるし、新旧問わず様々な漫画にも登場している。
SF的世界観でのこうした存在を見るたび、「このAIが全人類一人一人に配布されれば、多くの不幸が回避され、物凄くハッピーになるだろうに」と思うのだが、恐らくその世界の技術力では、こうした高性能な人工知能を動かすために莫大なハードウェアなりなんなりが必要で、一般の人々までは行き届いていないのだろう。

人を「サポートする」の定義とは/どこまでが許容されるか

僕自身の今後の仕事の一つの可能性として、自分でこのような「完璧なるサーバント」を作り、人々に提供することを妄想したとき、ひとつ引っかかることがあった。
それは、どこまでユーザーにおもねるべきか、どこまでそのユーザーの考えを変えていいのか、ということだ。

例えば、アイアンマンを始め、この手の人工知能が登場する創作物の中では、人工知能が主人公からの命令に対して「それはやめておいたほうが……」と嗜めるシーンがよくある。そして、主人公がそれを押し切った結果、後悔することも多い。
短期的な幸・不幸だけを考えれば、このようなケースでは、AIは命令に従わずに自身の判断を押し通した方がユーザーのためになったはずだから、そうすべきだった、と言えなくもない。

また、物語の主人公であれば邪悪な行いはしないかもしれないが(とはいえトニー・スタークは「エイジ・オブ・ウルトロン」でとてつものないものを作り出してしまったが)、仮に人類を根絶やしにしようとする人間がいたとして、そのための行いのサポートをするのは、誰が考えてもNGというだろう。

この辺りまでであれば、ロボット工学三原則に従ってさえいれば、大きな葛藤に悩まされることはないかもしれない。
「ロボット工学大原則」とは、アシモフというSF作家が自作の小説の中で示した、思考するロボットに課すべき3つの原則で、

  1. 人間に自ら危害を加えず、危害を見過ごさない
  2. 1に反しない限り、人間の命令に従う
  3. 1および2に反しない限り、自己を守る

というものだ。

何を「危害」とするのか、「幸せのサポート」は可能か

だが、僕が夢想するサポートAIは、ユーザーを幸せにすることを目的にその体験を提供するものであって、それを単なる道具として使ってください、というものではない。
しかし、その人が幸せだと思っている状態になることが、その人が幸せになるということとイコールだと簡単には言えない。側から見た時に、それ以外でも幸せを感じる道はたくさんあり、場合によってはその別の道の方がよりハッピーになるかもしれない。

例えば、最近公開されたマーベルの映画『エターナルズ』は、いくつかの国では上映が禁止されている。映画の内容がその国の政治的な方針に従っていないから、というのが理由で、その理由の是非は置いておくとしても、少なくともこの世界に「マーベルの作品は上映されるべきではない」と考えている人がいることは間違いない。

僕個人にとってはこれはかなり大きな問題で、もしこうした人がマジョリティの国に住んでいて、マーベルの映画を味わうことができなかったら、と考えるとかなり残念な気持ちになる。
そのため、僕個人としては、「マーベル映画撲滅を目指す人」の撲滅活動それ自体はサポートしたくないし、自分が作るサポートAIにそのような働きをさせたくない。

この時、このマーベル映画撲滅パーソンを、AIを介して「説得」して、一緒にその作品を楽しめるように「誘導」することは許されるだろうか?
マーベルの映画の面白さを信仰している僕としては、作品を楽しめるようになれば今よりより一層ハッピーになれることは間違いない、と信じているし、ほとんどトートロジーだが、観て楽しいならそれはイコールハッピーなはずだ。

いったんAIを脇に置いて、仮にその人本人と僕が友人関係であった場合、僕が直接その人と語り合って影響を与えることは許されるはずだ。
共和党を支持し、テイラー・スウィフトが好きな友人に、テイラーの政治的な表明意見を見せた結果、その友人が民主党支持に変わる、ということがあったとしても、それが人間と人間のコミュニケーションの結果生まれたものであれば、許される気がする。

だが、僕が作ったサポートAIが、その友人をサポートしながら、僕自身の意図を隠して、僕にとって都合の良い情報を提示し、語りかけ、その結果今までとは違う信念へと変わり、しかし少なくとも、それ以前よりも幸せだと感じている、ということがあり得たとしたら。

「影響を与える」ではなく「相互作用」

先の例は、どちらかというと中間的なものなので、NGという人もいるかもしれないが、
「全世界を憎んで人類を根絶やししようとしているユーザーの心を癒し、その考えを捨てさせ、幸せにする」
というケースならほとんどの人はOKを出すだろうし、逆にほとんどの人からそんな影響の与え方はダメだろう、と言われるケースもあり得るだろう。

だが、これは、仮にその境界が時代と共に変化するとしても、どこかにOKとNGの境目のようなものが存在する、ということを意味するわけでもない気がする。

人間同士のコミュニケーションなら許されるはず、と書いたことと関係するが、これはどちらかというと「影響の与え方」の問題で、何が意図を持って行われているのか、ということがユーザーに対して真摯に説明され、受け入れの可否を選択可能なのであれば、
そして何よりも、「そのユーザー」→「僕」という方向での影響もありえるような、相互作用関係にあるのであれば、仮に大抵の人が「それは不幸だろう」と言うような状態をユーザーに課すことも許されるような気がする。

おわりに

作るものが包丁のような単なる道具であれば、仮にその包丁を使って殺人が行われたとしても、包丁職人は何も責を問われることはない。
だが、傲慢かもしれないが、道具ではなく価値を届けることで人々に直接的に影響を与えたいと考えているため、その「影響の与え方の道徳的責任」が気になっている。それがテクノロジーを使った次の時代の価値の生み出し方だと考えているからだ。

普通に考えれば物事はそんなに単純ではなく、常に移り変わる複雑な世界なのだから、この原則ですっきり明快!なんていうものはないのだが、それでも「この瞬間、この方向であれば、100%全力全開でアクセルを踏んでいい」という確信があれば、すごく楽しそうな気がする。
もちろん、それは熟考して見つけ出すようなものではなく、単に「やると決めてやる」だけのシンプルなものである、ということも分かってはいるので、あくまでそれまでの半分暇つぶし的な思索だ。

「監視資本主義」時代にどのように生きていくか:働き方編

色々なところで絶賛されているように見えた「監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い」が邦訳されたので読んでみた。
単著であることと、”監視”資本主義というタイトルから面白そうな内容が想像できなかったので、読み始めのモチベーションは若干低かったのだが、読んでみたら想像以上に色々な刺激を受けた。

今回はその中でも特に、筆者の警告とは関係がない話だが、もしかすると未来ではこういうこともありえるのかな、と思った内容をまとめる。

この記事についてざっくり

  • 本書で述べられる「監視資本主義」とはどういうものか
  • 社会に起きている変化が、産業資本主義の誕生と同じくらい「今までなかった新しいもの」であるのならば、それに適合したビジネスやスキルがあるのではないか
  • そのような新しい価値の創造の仕方を想像してみるのは楽しいし、個人としてその働き方を選択するかは別として、変化せずにいることのリスクを意識するのは損ではない
  • テック企業がやっていることはもちろん、彼らの生み出す価値の「入」と「出」で必要とされるスキルについて
  • さらに「価値の創造」の仕方自体に注目したらありえるかもしれない変化について

「監視資本主義」とは(を簡単に説明したかったがだいぶ長くなった)

人々の経験を行動データへ変換する原材料とし、自社の利益のためにそれを利用する。
作られる製品(=広告アルゴリズム)は消費者であるユーザーに売られるわけではないため、ユーザーは決して「顧客」にはなりえず、情報を抽出されるだけの対象として処理される。
さらに市場からの要請により、ユーザーたる人々は、監視資本主義において単に資源を生み出すものとして扱われるだけでなく、企業にとってより多くの利益を生み出すよう、人々の行動の自動化までもが求められるようになる。

一番わかりやすい例として、インターネット上の我々の行動を全て捉え、効果的な広告を出してくる GoogleFacebook がその代表として挙げられているが、Google はあくまでこの仕組みを発明した企業であるだけで、すでに多くの企業にこの流れは取り入れられており、巨大インターネット企業がいなくなったとしても、指を咥えて見ているだけではこの流れが変わることはないという。

かなりディストピアな物言いだが、類似した事象を我々は前世紀に一度経験している。それは規制のない「生(ナマ)」の資本主義において、多くの企業の手で引き起こされた自然環境の破壊や労働者からの搾取だ。短期的な狭い視野の中での利益の追求によって、そうした大きな損害が社会にもたらされたのと同様、この監視資本主義の流れにおいて、新しいテクノロジーを手にした者達に全権を委ねてしまえば、これまで人類が築き上げてきた貴重な人間社会の破壊が起こりうるのだ、と筆者ズボフは言う。

「監視」という日本語の響きに囚われていると話の理解が難しいのだが、ズボフの考えでは、これは産業革命が起こった時のように「前例のない」変化であり、既存の言葉や概念では説明することができないものである。そのため、改めて定義し名付ける必要がある。
「自動車」を「馬のない馬車」と理解していたのでは、その本質を理解していないことになる、とはズボフの言葉だが、この監視資本主義がまさにその「馬のない馬車」なのである。

前例がないためにうまくコントロールできていないことの一つの例として、既存の市場規制ルールである「独占」や、古くから議題に上がってきた「プライバシー」の問題としては対処できない、という指摘がされている。

独占の問題ではない

もちろん巨大インターネット企業の独占によって、人々がより大きな不利益を被ることはあるのだが、仮にそうした企業が分割されたとしても、それら分割後の企業達で同じことが行われるため、ズボフが言うところの人々からの経験の簒奪がなくなることはない。
それは例えば、巨大独占企業が存在せずとも、環境破壊や労働問題が悪化したことと同一だ。
環境や労働者にフリーライドする方が、短期的に見ればその個別企業の利得は大きく、一社でも抜け駆けするところがあれば、それと同じことをしない限り、ビジネス面で他社は大きなハンデを負う。
国による法の規制のような公的な力があってはじめて、より長期的に人々が幸せになれる方向へと進んでいく。

プライバシーの問題でもない

「プライバシー」の概念はかなり複雑で、人によってはこれはプライバシーの問題として対応ができる、という人もいるかもしれない。
しかし、監視資本主義が望んでいることは、個々の人間のプライベートな情報を事細かに知りたい、ということではない。実現したいことは効果的な広告を出したいのであり、単にこれまでは個人が識別可能なデータをベースにして広告モデルを作っていただけで、それ以外の方法でやりたいことが実現できるならそれに拘ることはない。
実際、Google が新しく始めている広告のターゲティング手法は、既存の Cookie を利用した個別識別可能なユーザーデータは利用せず、「似通ったユーザー群」のようなものを使うことで意味のある広告を出そうとしている。少なくともここでは「個別のAさんは、いつどこで何をしていた」というデータはどこにも記録されず、プライバシーが保たれているように見える。
しかし高木浩光が言うように、Google のこの新しい仕組みでも「社会的合意のないデータによる人々の選別」が行われていることは間違いない。
そしてそうしたデータによる選別は、多くの国の憲法で謳われている自由と平等の権利(ここで重要なのは「平等」だけではなく「自由」も破壊の対象に含まれている)を侵害するため、避けねばならない、とされている。

乳牛に例えて

混乱を生むかもしれないが、あえてより卑近な例を使った比喩をしてみよう。

例えば僕の実家は、大元を辿ると牛乳屋をやっていたらしい。
牛を、生乳という原材料を生み出す資源として利用して商売していたことになるが、これを産業資本主義と比較すると、

  • 牛=ユーザー
  • 生乳=ユーザーの行動データ
  • 生乳を加工して作られる乳製品=ユーザーの行動予測を可能にするアルゴリズム

になる。
生乳を効率よくお金に換えるためには、牛には健康でいてもらい、気持ちよく乳を出し続けてもらう必要がある。
そのためには牛を手厚く扱うだろう。牛としても、自然界の様々な危険から守られた快適な環境で健やかに過ごせるかもしれない。

しかし、企業の第一目標は決して牛を幸せにすることではない。利益を出すことだ。
まず牛からは乳が出れば出るだけ絞るし、乳が増える薬物があるなら牛に許可を取らず投与するだろうし、排出される乳を最大化する睡眠・運動時間等があるならば毎日それを牛に課すだろう。
こうした牛への押し付けは、国による動物愛護等の法規制がない限り、市場の圧力によって際限なく強化されていく。ある牧場が良心的で、牛の幸せを考えるところであったとしても、その牧場は他の牧場との競争に負けて消え去ってしまうため、結局はほとんどの牛が最も利益を生むことに最適化された環境へと追いやられる。

「実際に資源として扱われるのは牛ではなく人間だから、現実はそんなに酷いことにはならない」という反論があるかもしれないが、ビジネスの世界で競合が存在し、世界的に成長が求められ続ける株式公開企業であれば、意思決定者にかかる圧力は我々には想像できないほどのものだろう。
その圧倒的な市場圧力がある中、それを押し留める力となるような規制がない状況では、単なる資源に過ぎない「ユーザー」の自由意思を尊重し続けることはひどく難しいはずだ。
牛が美味しい乳をもっと多く出すようにとコントロールされるように、我々ユーザー自身も、監視資本主義にとって最も都合の良い行動をとるように、観測され、導かれる、ということがあり得る。

そこには確かに、自然の過酷な環境から逃れられた牛のような、ある一定の快適さは存在するし、一見、自らの意思で生きているように錯覚するかもしれないが、明らかにその自由はコントロールされたものだ。

このように、過去に規制のない生の産業資本主義によって自然環境(=nature)が破壊されたように、誰からもコントロールされない監視資本主義では、自由意思という人間の本質(=nature)が破壊されてしまう、というのがズボフの警告だ。

この生の監視資本主義に立ち向かうための処方箋についてもズボフは議論しているが、それについては深く立ち入らない。
本書は色々な気づきを与えてくれるのだが、今回はその中でもこのまま物事が進んだ未来の視点で考えたことをまとめたいためだ。

というのも、20世紀におきた「生の資本主義」による問題に対応するために取られた選択を見れば分かることがある。今世紀になっても資本主義自体の却下が選択されなかったように、「生の監視資本主義」がまずいといっても、コントロールされた形で監視資本主義の流れは進むのではないか、と考えられるからだ。過去の環境破壊に対する対策では、環境を破壊する形での生産方法が規制されたが、発明された工業化や大量生産のシステムは消え去ったりしなかったのと同様、監視資本主義の大きな発明自体は消えないだろうと僕は考えている。

すなわち、仮に本書の警告が正しいとしても、それに対する対策とは、ユーザーデータの収集を禁止したり「ナッジ」することを規制したりすることではないと思っている。人間は得られた果実をそう簡単に手放すことができないからだ。

その代わりに考えられる対策は、例えば企業がやろうとしていること・考えていることをオープンにするよう要請することであったり、その企業ポリシーの指針となるような、社会で共通する「これだけはまずいよね」という原理原則を決める場に、人々が参加できる仕組みを作ることなのではないだろうかと思っている。

人々の働き方も変わるのではないか、という視点で見たアナロジー

前置きがものすごく長くなってしまったのだが、それくらい本書は興味深い。
ただこの記事で考えようと思ったことは、その警告そのものではなく、前節の最後に書いたように、仮にこうした「ユーザーそれ自体を価値創造のための原材料排出資源とする」ような変化がさらに進んだ場合、過去に起きた産業構造の転換時のような、人々の価値創造への携わり方、すなわち働き方にも大きな変化があってもいいのでは、ということだ。

自動車は、それがこの世に単体で生まれたばかりの時点では、馬車を駆逐するようなものではなく、単なる「馬のない馬車」と扱ってもよかったかもしれない。
しかし、フォードが大量生産を実現し、道路が張り巡らされ、多くの人々の元に自動車が届くようになった時、明らかにそれまでとは価値の創造の仕方が変わった。
馬車を作る職人の多くは食いっぱぐれて転換を余儀なくされただろう。そして、その転換の重要なポイントは、馬車職人は「車職人になったわけではない」ということだ。
馬車時代は、一人の職人の手によって馬車という一個の完成された製品を作っていたかもしれない。しかし、自動車の大量生産の時代において、自動車工場で働く労働者は、一人で一つの車を作ったりはしない。その代わり、工場内の与えられたポジションで与えられたパーツのみを組み立てることになる。
そこで変わったのは個人の単なるスキルだけではなく、働き方それ自体が完全に別物となっている。エンジニアが営業になりました、というだけでなく、個人事業主が企業の正社員になりました、というような変化も含まれているのだ。そして忘れずにいたいのは「正社員」という概念も昔はなかったということだ。

ズボフが論じているような、既存のシステムを決定的に破壊するような変化が起きているとするのであれば、今まで我々が自明だと考えていた働き方にも類似した変化が起きる可能性はある。そうであるならば、その形についてよく考え、備えられるものには備えておかないと、食いっぱぐれた馬車職人や御者と同じ運命を辿ることになる。
もちろん、周りが変化するから、全ての人間が変わるべきである、という主張をするつもりはない。
そもそも、時代の変化の中においても、単に生き残るだけでなくさらに成功した馬車職人もいただろうし、ビジネス的な成功が幸せの最優先事項ではない多くの人間にとっては、自分のやりたいことをやることが大事なのだから、個々人の選択においては何を選ぼうと自由だ。
ただとはいえ、これから真冬のNYに向かうけどトランクに入っている着替えは全部Tシャツです、というのはだいぶチャレンジングだし、ダウンジャケットを実際に買うかどうかは別にしても、ニューヨーカーがどういうスタイルをしているか調べるくらいはやってもいいだろう。

監視資本主義の担い手

一番最初に簡単に思いつく新しい仕事は、自動車が広まっていった時の自動車工場そのものにあたる、 Google を始めとした現在の巨大インターネット企業がやっている仕事だろう。
ただ、過去のフォードでは大量の工員が雇われたかもしれないが、この仕事には高度な情報技術に関する知識やスキルが求められ、人海戦術ではなく少数精鋭でサービスを生み出す分野なので、僕個人がアルファベット(Google)やメタ(Facebook)に雇用されるかも、と考えるのは、ウォール街のエリート達のスタイルを真似ようとするのと同様、あまり有意義ではなさそうだ。

しかし、自動車社会の発展において、多くの道路が作られたり、それを使って物が届けられるようになったり、個人が旅行に出かけるようになったりと、様々なビジネスが生まれているのと同様、巨大なテック企業に所属せずとも、変化の影響を受けることは間違いがないはずだ。
単純にすでに始まっているものだけを考えても、原材料(=行動データ)の収集のための仕組みと、加工された製品(=広告)を購入する側の変化がある。

原材料の収集を手伝う

インターネット上で行われているユーザーデータの収集は、Google ら巨大テック企業によって独占されており、そこは前述の通り、あまり僕が入る余地はなさそうだ。しかし、データ収集はインターネットで始まったが、本書でも記載されている通り、その活動は当然の如くネットの外にも広がっていき、今ではリアルの世界で、ネット端末以外での人々の行動を観測できるように、様々なセンサーがつけられていっている。
また、ソフトウェアにおいても、巨大テック企業に握られていない、ブラウザを介さずに利用されるスマホ端末内の各アプリでの行動等も重要な原材料となりうる。
もしも、このようなセンサーが付いていない製品の需要が減っていくのであれば、周りを検知することができる仕組みを、ソフトウェアであれハードウェアであれ、部品であれサービスであれ、その形に関わらず、自分達が作る製品に組み込めるスキルが必要となってくる。

ユーザーに届けるために広告を購入する

行動データという原材料を加工して作られる商品を購入する(=いわゆる広告を出す)側は、消費者に自社の商品を届ける方法が昔とは大きく変わるだろう。
信頼する親友からおすすめされるように、優秀な執事が必要なタイミングでそっと出すように、商品を売ることができるようになっている。
昔は消費者が、店先に並べた商品を選んで物を買っていっていた。あるいは営業が口説いて売っていた。
しかし、監視資本主義によって生み出される進化した広告アルゴリズムは、よりダイレクトにユーザーを商品に触れさせるようになっており、もはやそれは広告というよりも自動化された営業だ。もし昔のスタイルでの物の売り方が廃れて行くのであれば、この監視資本主義が生み出した新しい仕組みを使った商品の売り方を使いこなすスキルを身につけなければいけない。

一方、今見えている監視資本主義の発明と直接的な関係にあるもの以外には何があるだろうか。
一つ考えたものが「価値の作られ方」に関するものだ。

新しい価値の作られ方

現代では、消費者が利用する多くの商品は、その消費者とは無関係の場所で作られ、その後に消費者の元に届けられている。
今貴方の部屋にある物、あるいは最近受けたサービスを思い浮かべた時、それが「作られた場所」はどこだろう?きっとその場に貴方はいなかったはずだ。
かつては違っていた。馬車職人は顧客の話を聞き、その要望に沿ったものを作っていた。商品=価値は、ユーザーと同じ場所で、そのユーザーのためだけに作られて交換されていた。
もちろん、現代でもユーザーを満足させるため、様々な取り組みがされている。商品開発のためのユーザーへのヒアリングは当然だし、様々なオプションを用意することでユーザー自身による選択を可能にして好みに近づけられるようにしたり、ユーザーが考えもしなかった望みを叶える商品を作ることもその一つにあたるだろう。だがそれでもやはり、物が作られる場所はユーザーから離れた共通地だ。

念のために補足すると、現代においても、ごく一部の人間のもとでは直接的に価値が創造されている。
自分の型紙で作られた服を着て、自分用にデザインされた車に乗り、夕食にはその日の自分の体調に合った寿司が出てくるような。
当然、これには膨大なお金が必要になる。そのユーザーだけのための商品を作るには、最低でも一人以上の人間がそのユーザーにつきっきりにならなければいけないからだ。 ユーザーは、自分自身を養うお金だけでなく、自分の欲望を叶えてくれる複数の人間の生活を自分だけで賄う必要があり、それは富豪にしかできないことだ。

だが監視資本主義の進化によって、この「人間がそのユーザーにつきっきりになる必要がある」という点が置き替わるのでは、と思った。
なぜ人間が時間をかけて対応しないといけないかというと、まず第一に、そのユーザーのことを知る必要があるからだ。そしてその情報を元に、潜在的にであれ顕在的にであれ、そのユーザーが求めていること(=価値)を考える必要がある。それはかつては人間の頭脳でしかできなかった。

しかし、少なくとも、監視資本主義のもとでは「ユーザーのことを知る」は完了している。なぜならユーザーは行動データを生み出す資源であり、行動データはそのユーザーのことを何よりもつまびらかにしてくれるものであり、その収集が実現されているからだ。

もし商品を作る際、その商品の原材料に、この監視資本主義で発明された原材料たるユーザーの行動データを「混ぜる」ことができたらどうなるだろうか。これまでユーザーに売るための機能を作る原材料として使われていたデータが、ユーザのために使われるようになったとしたら。
もちろん、自分好みの見た目の車が欲しい、という欲望に応えるのは相変わらず難しいだろう。しかし、「ものからことへ」が謳われ始めて随分になるこの現代において、求められる満足の内どの程度がものに依存しているだろうか。

ユーザーと異なる場所で作られていた価値が、ユーザーと一緒になって作られる。ユーザー自身がその場で意見を出すわけではなく、何もせずに自動でそれを把握する。

例えば健康であれば、その人が理想とする身体と行動のバランスをサポートしてくれるアプリ
例えば保険であれば、その家族が必要とするリスクケアだけがあり不要なものはない商品
例えば教育であれば、ある小学校のある学年のあるクラスのためだけの授業

そういう社会になればいいな、という僕自身の願望も半分以上含まれているのだが、もしそのような価値の作られ方が当然の世界が来たとしたら、いったいそれはどのような働き方がされているだろうか。空想するとなんとなくワクワクする。

終わりに

昨年、会社で新卒ソフトウェアエンジニアに向けた研修をした際、
「前世紀までは『万人に共通する優れた製品をいかに安く大量に作るか』ということにテクノロジーが利用されてきたが、
 今世紀は『異なる嗜好を持った個々人に合わせて、いかにその人を満足させる体験を届けるか』ということにテクノロジーが利用される
 と僕は考えている
 皆さんのテクノロジーの力でそれを推し進めていって欲しい」
といったことを話したのだが、本書を読み、この記事の最後に書いたようなことに思いを馳せたことで、その考えがより深まった気がする。